小説よりも奇なり。『考え方』


こんにちは。かつあきです。

 

2023年がスタートして、1か月が経ちました。

なんだかあっという間でした。

 

その間にも、私なりに小さな経験がいろいろありました。

前回のブログの中でも書きましたが、

『見栄を張らなくても』『煌びやかに飾らなくても』『お金がなくても』、馬鹿にされることも、嫌われることもなく、むしろ真剣に向き合ってくれる方々が存在して、おかげで私もまた自分自身と向き合えることができて、本当に「心が休まる」とはこういうことなのかもしれないと感じることもありました。

過去の私なら、真逆の判断をしていただろうなということも、今だからこそ理解できます。

 

 

最近、自分でも感じるのは、過去の自分には足りなかったことや、わからなかったことなどを、「過去の自分はこうだったな。でも今は、これがわかるようになって、こんな風に考えることができるようになった。」と、小さなことでも自己分析できるようになったことです。

その裏付けとして、それを言葉にしているのです。つまり、「アウトプット」しているのです。

これは、私にとってはすごい変化なのです。

 

過去の私は、見栄っ張りで、自分の失敗を失敗とは決して言わなかったし、随分と知ったかぶりもしていました。そういう生き方しか知らなかったのです。今思えば、大分ヤバい人間です。しょうもない。でも、そうするしかなかったのです。他に選択肢は持ち合わせていなかったのですから。

 

この変化は決して簡単なことではなく、本当にこれまでの特別メンタルコンサルティングの中での訓練の成果だと思っています。

 

 

私にとって、スポーツのことは野球しか知らないと思っていました。良くも悪くも、野球だけは一生懸命やった事実があります。でも、野球を知っていると自分でそう思い込んでいただけでした。

しかし、確かに、種目こそ野球をしてきたのかもしれませんが、決して野球を知っていたわけではありませんでした。

このブログでも、何度か、いくえさんが野球に例えてわたしに詰め寄った時のことを書いていますが、いくえさんは野球をしていたわけではありません。(小学生の頃にソフトボールをしていたようで、大体のルールは理解しているようです。)なのになぜ、野球を例に挙げて私に「正論」を話すことができたのか。

 

いくえさんは、物事の考え方を知っているのだと私は思います。

どんな種目でも、土台となる思考というものは、同じなのだと知りました。

 

いくえさんは、この特別メンタルコンサルティングを、常に「関わってくれる人から応援されるものにしなければ意味がない」と話していました。

「あなたとわたしの、2人の世界だけで解決しても何の意味もない。そんな狭い世界でどうこうなったところで、通用しない。」と話していました。

 

いくえさんは、他のスタッフや、関わってくれている人たちに、日々に起きたことを、きちんと話して共有していました。私の至らなかったことも、できるようになったことも、隠さずに。それは、私にも隠さずに。私のいないところで陰口を言うのではなく、私もいる前でちゃんと話すのです。

過去の私は、それが本当に嫌でした。なにが応援?私を馬鹿にするだけのことだと、全く理解できませんでした。いくえさんに、他の人に話すのをやめてほしいと訴えたこともあります。


その時に、いくえさんは、

「人は、あなたがどう成長していくのか、その過程が見えるから応援したくなるものよ。そりゃ、あなたの立場は、すごく苦しいことなのもわかってる。でも、その過程がわからなかったら、誰もあなたに興味もない。整体師という肩書きだけじゃん。あなた、どうしたいの?どうなりたいの?じゃあ聞くけど、今までわたしが、他の人に話してきて、1人でもあなたのことを馬鹿にした人がいた?話を聞いて、鼻で笑うようなリアクションをとった人がいた?全員、真剣に考えてたじゃん。自分のことのように、自分と照らし合わせて考えてたじゃん。最後にあなたに『すごい』『よかったね』って言ってくれる人までいたわ。あなたはそれでも、自分が馬鹿にされてると思ってるの?あなたが今、訓練していることは、あなたにとってそんなに馬鹿にされるようなこと?あなた自身がそう思ってるから、周りにも馬鹿にされると思ってるんでしょ?だったら、今すぐにやめてほしい。そんな奴、わたしにとってマイナスでしかない。あなた、いつまで自分のことを偽ったら気が済むの?いい加減、自分のことをもう少し信用したら?」

と言いました。

 

ハッとしました。

 

私は勝手に「自分は馬鹿にされる」と思い込んでいたのだと気づいたのです。それは過去からの習慣だったのかもしれない。でも、今の環境はそうじゃない。私は自分で自分を傷つけていて、それを周りのせいにしようとしていたのです。

 

それからは、私の話を聞いている人がどんな表情をしているのか、どんなリアクションをするのか、しっかり見るようにしました。自分を決めつけている色眼鏡を外して。

 

 

 

本当に、関わってくれる人がみなさん応援してくれるのです。

 


 

あるテレビ番組で、元プロ野球選手が、とある高校球児からの質問に対して、こう答えていました。

 

高校球児「走塁でアウトにならないためには、どうしたらいいですか?」

 

回答「アウトにならないことが正解なのか?例えば、一塁にいる選手を二塁に送るためにアウトになることは間違いなのか?ただ、二塁に送りたいのに、二塁でアウトになることは間違いかもしれない。要は、がむしゃらにやることよりも、見ている人が納得できるような綺麗な野球をしたいよね。ただ、アウトにならないようにってやるんじゃなく、意図してアウトになることだってあって、それを見ている人も納得する。例え、勝てなくても、このチーム面白いな。感動するな。って、応援してもらえてこそ。」

 

というようなことだったと思います。

これを聞いたとき、いくえさんを思い出しました。

勝つには、勝つための練習が必要です。がむしゃらに練習して「練習量だけは負けない」と言ったって、勝つための練習ができてなければ勝てないと断言されたことも思い出しましたし、「あなたはどうしたいの?」と、意図を持ってやることの必要性のこと、そして、最初にも書きましたが、

「関わってくれる人から応援されるものにしなければ意味がない」

ということ。

 

私も野球は一生懸命してきたのに、そんな考えなんて1ミリも思い浮かびませんでした。



さらには、その元プロ野球選手は、指導者にも意見や考え方を伝えていたのですが、その様子が、少しイラついて見えた場面があったのです。


その様子も、600日前のいくえさんと重なりました。

私が、母校の野球部のことを自慢げに話したときがありました。母校はここ数年、県で2位になるまで戦えるくらいになったことを、まるで自分のことかのように話したのです。

わたしの話を聞いたいくえさんは、

「あなたたちに野球の何がわかるの?勝てない奴らが先輩風吹かせて、現役の子たちになんのプラスになるの?指導者も変わって今の結果が出てるなら、あなたたちの時代とは、全然違うことを今の子たちはやってるってことでしょ?じゃあ、今の子たちが勝てた要因は何?その分析できる?できないでしょ?だって何にも知らないじゃん。ただ野球というものをやってました。ってだけじゃん?そんなに自分の野球が大事なら、もっと大事なことがある。『名前を背負う』っていう責任、考えたことある?自分の母校がそんなに大事ならなんで大事にしないの?強豪校の卒業生は、みんな一生、母校の名前を背負うのよ。自分の人生に、母校の名前がついてくるのよ。それがどれだけの責任かわかる?あなたたちにそんな思考が1ミリでもあるなら、卒業してから今までのあなたの行動・言動はもっと違うはず。主役は現役の選手たちよ?なのに、あなたの話は、いつまでも自分が主役だと勘違いしてる。そんな奴が、一番現役の足を引っ張ることも知らないでしょ?」


…この文章の100倍くらいの勢いで、イラ立ちを全面にぶつけられたのです。


それはまるで、『こんなことも知らなくて、自分は野球やってました。ってよく威張って言えるよね?わたしなら恥ずかしいわ。』と言われたような気分でした。




今の私には、レベルの違いがわかります。


物事の考え方は、ある程度のレベルで経験した人は、みんな同じことを言うのです。



私は、今、そういう思考に触れることができることを、本当に嬉しく思うのです。