そんなこと、わかっている。わかりきってる。
なのに、まだまだ、
「足るを知れ!」
と、言ってくる。
どういうことなのか…。
「足るを知る。」
今の自分には、もうすでに足りているものが、たくさんある。そこに気付け!ということなのだが、それは、信用(お金)、信頼(心)を元に、今の環境(現状)と向き合って、一つ一つ照らし合わせてみろ。ということ。
お金が欲しい!お金が足りない!…本当か?
旦那が!子どもが!周りが!…本当か?
そのほかにも、いろいろと要望があるだろうが、…本当か?
本当に、足りてないのか?
…
自分がラクしたいだけじゃね?
っていうオチがつくのが、ほとんどの場合。
わたしはの場合、
わたしを信じてついてきてくれている人間がいること。決して、仕事の能力が高いわけではないが、わたしの足を引っ張る人間は1人もいない。
仕事の能力が高くても、人の足を引っ張る人間はいくらでもいる。(組織になると、人の足を引っ張る人間がいないことの方が奇跡なのだ。)
今のこのサロンも、彼等がいることで成り立っている。
…そんなことは、百も承知だ。
人に恵まれ、信頼もある。あとは、お金だけ。さぁ、どうするか…。
どうやって、立て直していくか?
今のわたしの考えは、実は間違っているのか…?
お金がないということは、何かをストップさせられている。
わたしはもう一度、考えた。
・2年前、わたしは彼らと一緒に活動することを決断した。それで、きっと売り上げは下がる。なぜなら、彼らを育てなければならないから。実務を経験しながら育てていかなければ、時間がないこともわかっていた。
・実行し、予想通りの売り上げとなっていく。しかし、それでもわたしの元から離れずに「学ばせてほしい」と、懇願される。
・経験を積み、価値観を広げて選択肢も増えたことにより「できること」が確実に増えた。チーム内での訓練から、対外試合をしながらの訓練ができるようになった。
・そんな中でも、定期的に通ってくれるリピーターも存在し、確実に、彼らの応援をしてくれている。
なんて、恵まれているのか。
何度も言うが、それは百も承知なのだ。
あ…。
わたしは、自分自身の「足る」に目線が向いてないことに気づいた。
それをすべて決断して実行してきたのは、わたし自身だ。
彼らが、訓練を重ね成長する過程で、人間力も高めていけたのも、その時その時のわたしの決断と実行があったから。
わたしは、他人を変えようとは思っていない。ただ、世の中には、価値観はものすごく広くて、選択肢もものすごくたくさんある。そして、それによって思考も変わるということを、伝えているに過ぎない。
彼らは、その過程の中で、自ら「変わろうと努力した」のだ。しかし、その努力も、もしかすると、わたしの決断と実行があったからかもしれない。
それは、基本的に40代という年齢からでは、並大抵の事ではない。なぜなら、気力がもたないから。大半の人間は、歳を重ねるほどに傷つきたくない。
これといって、特別な能力もない、普通と言われる40代の人間が、この奇跡を起こしたことは、本人たちはもちろん、周りの人間にも勇気と希望を与えるだろう。
そういった道筋を立ててきたのは、間違いなく、わたしなのだ。
たった2年で、彼らは、慈悲深さや、慈愛というものも身につけていった。損得勘定を超えた世界があることを知ったのだ。
ここまでのことを、わたし以外の誰ができるだろうか。わたしは、何も間違っていない。
セロトニン的幸せと、オキシトシン的幸せを十分に実感してこそ、ドーパミン的幸せを得ても、ドーパミンに支配されずに、穏やかに過ごすことができる。
大半の人間は、ドーパミン的幸せが幸せだと思い込んでいるから、事あるごとにガチャガチャして生きていく。
そんなことを、誰が教えてくれるだろうか。
わたしは、自分の内側の「足るを知る」必要があった。
わたしにとっては当たり前のことを、改めて自覚していく。
2年前に蒔いた種が、今、これだけの結果が出ているじゃないか。
わたしは何も間違ってはいない。
わたしはわたしにできることを全力で実行して、その結果もちゃんと出ている。
自分で、セロトニン的幸せ、オキシトシン的幸せをしっかり得ているじゃないか。
再三にわたり「足るを知れ!」とは、こういうことだったのか。
やっと気付けた。
さぁ、これからが本番だ。なんだかワクワクしてきた。