「食事の時は、子どもにテレビを見せない。」
という、大人がいた。
わたしは田舎の僻地で、ひとりっ子。
テレビは、世の中の情報を取り入れる唯一のツールだった。
中でも、バラエティー番組は、生活に笑いを与えてくれるエッセンスで、それを元に、友だちとの会話の中でも笑いが起こったり、母親との会話に笑いが起こったりしていた。
うちは、大正生まれの父方の祖父母と同居していたので、テレビから聞こえる音は、母親にとっても現実逃避のツールだったに違いない。
テレビの中は、いつも時代を反映している。
時代の流れについていくツールにも、テレビの役目は大きかった。いや、そんな難しいことよりも、日々の生活の束の間の「笑い」のエッセンスには確実になっていた。
人に何かを伝えたいときに、笑いやユーモアがあるとないとでは、伝わり方が全く違ってくる。ユーモアの中には、言い回し、ボキャブラリーが必須で、言葉数が多いと飽きられない。
そういうものは、自分の中から生まれてくるものではなく、どこかで聞いたことのあるフレーズを元に作り出されていく。
食事をするときにテレビを見ずに、それを補うほどの笑いやユーモア、言い回しやボキャブラリーが、その時間にあれば大正解なのだろう。
でも、それができているなら、わざわざテレビを消さなくても、自然と会話の方に興味がいくものだ。
「子どものため」というもっともらしい言い分で、理屈を立てるが、本当にそうなのだろうか?
理屈にばかり気を取られ、上っ面の部分で子どもと向き合って、上手くいかないと嘆いてみせる。一体、何を見せられているのか。
子どものためという一辺倒な言葉で、結局は、自分が安心したいだけなのが、オチ。
「子どものため」とテレビを消して、舅や姑と食卓を囲んで、ブスくれた表情に、子どもは何を思うか。会話を楽しみたいと、子どもが話すことばかりを期待して、親は自分の話をしないことが、本当に豊かさに繋がるのか。
「食事の時は、テレビは見れなかった。」
という人にたくさん会ってきた。
それを、「良かった」と言ってる人には会ったことがない。そして、そういう人で、ボキャブラリーが豊富だと感じた人にも、わたしはまだ出会っていない。
時代が変わり、スマホやゲームにツールは変わった。
いつの時代も、興味があれば、人間はそっちの方向に視線が向くということは変わりはないのだ。
そこを忘れてはいけない。