Sちゃん。


前回のブログ「スピリチュアルにハマったところで。」を書いて気づいたのだが、過去にも似たようなことを「スピリチュアルに偏らない。」という題で書いている。

 

それほど、わたしの中では割と重要なことなのだと思う。

 

☆「スピリチュアルにハマったところで。」→コチラ

☆「スピリチュアルに偏らない。」→コチラ

 

2023年までのブログは、そのときのわたしの心情が素直に文面に出ている。それも、一緒に楽しんでもらいたい。

 

さて、前回のブログ内容からの延長で、今日わざわざここに書いておこうと思ったこと。

それは、スピリチュアル能力があるなら、なおさら人間界での修業が必要だということだ。

 

大阪にいるわたしの友人「Y子」(以下、Y子と表す。)の娘さんの「Sちゃん」(以下、Sちゃんと表す。)という女性がいる。今年、21歳になっただろうか。

わたしは、彼女がまだベビーカーに座っている時から、縁があって対面している。Sちゃんが3歳の時には、一緒に食事をする機会があった。わたしは、Y子に「この子は、天才だよ。」と、ひたすら伝えていたのだが、随分あとになって「天才」の意味まで伝わっていなかったことに気がつくことになる。

 

2016年11月に、わたしは初めてY子の自宅に伺ったことをきっかけに、Sちゃんと直接話すことが増えた。(Y子宅へ伺った理由は、「2つのストーリー」に記載している。)

その時のSちゃんは、すでに能力は発揮していて、「みえる」「きこえる」が日常だった。根本的に、わたしと大きく違うところは、わたしは、それを誰にも言わなかった。Sちゃんは、それを言っていた。というとこだろう。

「言いたい」「わかってほしい」「共感してほしい」という思いは、人間なら誰しもあるのだろうが、Sちゃんも人並みにそれがあったということだ。

わたしにはそれが一切なかった。「言ったところで?」だ。いや、もっと言えば、「こんなこと言わなくたって、誰もが当たり前に理解していること。」と、超ポジティブに捉えていた部分が大きかったのかもしれない。

 

「理解してほしい」「共感してほしい」と思い始めると、「なんでわからないの?」「なんでわかってくれないの?」と、相手のことが許せなくなる。この時点で、本当に根本的に、ただの人間なのだ。

 

そのころ、Sちゃんは中学生だったが、わたしから視たら、ただの人間だった。

「天才」の意味など、その人によって変わってくる。そこすら誰も理解できていなかったのだろうと、そのとき気づいた。

「天才」と言われたら、「天才とは?」と疑問が出てくるはずなのだ。そうじゃない人間は『天才=完璧』と勝手な解釈をする。これまでたくさんの「天才」がいたが、どこに「完璧な人間」がいたのだろうか?伝記を読んでも、完璧な人間などいない。それなのに、「天才=完璧」だと、おそらくこのブログを読みながらハッとした人もたくさんいるだろう。

 

「天才」は、その能力を「どう使うか?」「もっとよりよく使うには?」ということを当たり前に考える。そう、「考える」ことをやめないことでもあるのだ。

 

自分になぜこんな能力があるのか?

これをどう生かせばいいのか?

壮大なのテーマをすでに与えられていたのにも関わらず、ただの人間になっていたのだ。

 

まだ中学生だから?・・能力に年齢なんて関係ない。しかし、そうやって「まだ中学生」というのなら、その謙虚さこそ必要で、考え、実践し、検証するに値する。そういう人間としての人生経験も乏しいのに、「みえる」「きこえる」からなんなのか。相手のために、伝えるには?相手が幸せを感じるきっかけになるように伝えるには?それができないなら、言うだけ混乱させて誰も幸せにならない。

もっと言えば、その能力を受け入れる覚悟をするかしないのか、それだけでもかなりの時間を要するのだ。そのくらい、その能力を「どう使うか」というのは、簡単なことではない。

 

わたしは、できる限り、根本的なことは伝えてきた。彼女がどう生きようが彼女の自由だ。しかし、そこにその能力が存在するなら、その分も頭の片隅で考えなくてはならない。

 

この能力を「どう使うか」。

自分の人生にドラマがあるように、相手の人生にもドラマがある。10人いれば10通りのドラマがあるのだ。ということは、それぞれに使え方のベストは異なる可能性が高い。もっと言えば、その人が何を経験してきたか?によって、「例え」も変わってくる。人に何かを伝えるには、その人がイメージできることを「例え」にするのが一番伝わりやすい。ということは、こちら側にその経験がなければ、「例え」すら満足にできない。

伝わらない以上は何も始まらないのだ。この世は人間界。人間に伝わらないでは話にならない。

「なんでわかってもらえないの?」で終わるなんてことは、ありえないのだ。

 

Sちゃんが高校3年生になったときに、わたしは大学進学を勧めた。

「家から出て、自分の知らない世界に行っておいで。」

これこそが、人生の大きな財産になる。そんなことは何も大学進学しなくてもできる場合もある。だけど彼女の場合は、これしかないなと思った。

家族が一緒にいることが、本当に幸せなのか?一緒にいることが、仲が良いことなのか?仲が良いことが、すべてなのか?

そういうところからも「考える」ことなのだ。

 

人間は、1人で生きていくことになるのだが、独りにはならないのだ。

人間は、いつか死ぬのだが、簡単には死なないのだ。

それを自分が当たり前に経験していることを、体感しているか?

 

「みえる」「きこえる」だけでは、ただの人間なのだ。(場合によっては、タチが悪い。)そんなことよりも、人間の様々な価値観を「こんな人間もいるんだなぁ」とポジティブに受け入れる訓練が必要なのだ。そこを、逃げては、何も始まらないのだ。

 

これは、はっきり言って、スピリチュアル能力以前の話なのだ。この程度、当たり前に考えている人間なんてザラにいる。そういうレベルにまで、自分で目を向けようとしないで誰が教えてくれようか。

 

人間を知ろうとする努力。それをせずにスピリチュアル能力をふりかざしても、なんの成果も成せない。

 

さあ、これからどういう経験をしてくるのか。とても楽しみだ。