愛されていた。


人間関係においては、少なからず親との関係が影響する。


だからこそ、わたしはInstagramで、親子に特化した投稿をしている。


基本的には、育てられたようにしか、育てられない。

親が与えてくれるものは、親の人生が土台。


という事は、自分が自分の人生を生きるには、

新たに、自分で多様な価値観に、触れていくことなのだ。


わたしも、相談を受ける中で、

その方の過去のことを尋ねたり視たりするが、

それは、今の状態の原因がどこにあるのか?

を探るため。


その結果、大半の「原因」は、

親の価値観の広さ(幅)が大きく関係していて、

それが足かせになっていたり、トラウマのようなものになっていたり、

本人が生きて行く中で、妨げになっていたりしていることが、とても多い。



その「原因」がわかったから、すべてが解決するわけではなく、

その「原因」が自分の価値観や思考にどう影響しているのか?

というものを掘り下げて理解していくことも必要になる。


この作業が、かなり時間がかかる。

というのも、1つや2つではないからだ。

いろんなパターンに、いちいちその「原因」が顔を出してくる。

その都度、本人は、過去に戻ったような気持ちになり、しっかり傷つく。



同時に、「今を生きる」ことも行わなければならない。

なぜなら、人生は今も進み、時間は待ってはくれない。


「今」言った発言、「今」判断した行動、

それも、掘り下げていくことも必要なのだ。


それは、自分の価値観が、

思い込みの価値観ではないか?

他に価値観の選択肢はないか?

と自分と向き合うことになる。



しかし、過去に親への欲求(不満)が満たされていないと、そこの部分ばかりに囚われてしまう。


自分が傷ついた「原因」は「親のせい」だと結論づけたら、それでスッキリするのではなく、

「ほら!」

「やっぱりそうだ!」

「だから自分はこうなった!」

と、次から次に「親のせい」が出てきて止まらなくなる。


これは、親が相手でなくても、

人間はそうやって何かを「正当化」するときに、

振り上げた拳を下ろせなくなり、もはやイジメと変わらないような状況が脳内で起こるようになる。



もちろん、「原因」は親にある。

だとしても。


子ども側も、愛を感じられない「不感状態」にあるのは、どうなのか?とわたしは思う。



例えば、親の勝手な価値観で、その狭い世界の中に押し込まれてた過去があるとする。


わたしと出会ったことによって、

その世界からは出ることができたとしても、

自らその世界に戻っては、

親への不満を脳内で爆発させることを繰り返す傾向にある。

 


しかし、当の親は、それが精一杯だったのだ。



側から見てもなんともバカ親で、

子ども側から見ても、弱い弱い愛でしかなく

「愛された」ことよりも「虐げられた」ことの方が強く残っている。


だとしても。


本当に愛されていなかったのか?



ここでは事件レベルではなく、ただただ親がバカだったというレベルでの話だが、


大きな愛か、小さな愛か、

弱い愛か、強い愛か、

それは、子ども側の自分の物差しで測った結果であり、親からすればどれも精一杯なのだ。



それは、自分が親の立ち場になった途端に、

今度は自分の愛が「小さい愛」「弱い愛」と判断されれば間違いなく傷つく。


人間とは、どこまでいっても、自分勝手なのだ。




親が亡くなると、大抵の子どもは、親の愛に気づく。

なぜか?


おそらく、子どもから歩み寄ろうとするからだろう。

子どもが、親の「愛」を探しに行くからだろう。



親が亡くなってから、それができるなら、

親が生きている間でも、それはできるはずだ。



別に、親に擦り寄れとか、優しくしろとか、そんなことではなく、


小さかろうが、弱かろうが

「自分は愛されていた。」

と、心の中で完結すれば良いだけのこと。



喧嘩をしようが、面倒くさいと思おうが、何だろうが、

「自分は愛されていた」ことには間違いはない。

それだけのこと。



親がバカだとしても、自分までバカになる必要はない。



自分までバカになって愛を感じられない「不感状態」になる必要はないのだ。




自分の自尊心や自己肯定感の低さの「原因」は、親だとしても、それを脱却するのは「自分自身」。



自分の人生は、自分でどうにでもできるのだ。