不登校の相談。


この生業をしていると、子どもに関する相談も多い。

 

中でも、不登校に関することは多く、それは親が、子どもが不登校だということが『良くないこと』だという認識が拭えない状況がある。

 

そしてもう一つ、親が『学校は楽しいところ』でなければならないという思い込みもある。

 

子どもが、学校に行かない理由はそれぞれだ。

つまり、1人1人に理由が存在する。

子どもと直接話すことも稀にあるが、大抵は家族の思い込みの価値観が邪魔をしているので、本人の問題だけではないパターンが多い。

 

学校は、職場と同じようなものなのだ。

自分が子どもの頃に、本当に学校が楽しかったか?毎日、行きたくて行きたくてたまらなかったか?

同じように、社会人になって、職場に行くのが楽しいか?学校とは違い、報酬が出る。それでも、どれだけの人が職場に行くことを楽しみにしているだろうか?

 

そう考えれば、行き渋りが起こるのは、ごく自然なこと。

そして、何より、家の居心地が良いからこそ、行き渋りが起こる。

家の居心地が良くなければ、学校を逃げ場にするのは当たり前のこと。そこまでの想像力すらない親が多い。

そこを理解すれば、学校に行くことが『善』で学校に行かないことが『悪』という思い込みが、どれだけバカげていることなのかに気づくはずだ。

そして、子どもへの声掛けの質も変わるだろう。

 

 

学校は、決して楽しいところではない。職場と同じだ。

楽しいと感じる人には楽しいし、めんどくせーと感じる人にはめんどくさい。

決められたカリキュラム内の中で縛られていて、そのカリキュラムが、すべての子どもの興味を網羅しているとは限らないし、そこで出会う人間が、全員自分にとって都合の良い人間とも限らない。

ということは、学校に行くのだって、過剰な期待など余計で、どこか前向きに諦める心の寛大さが必要なのだ。

それこそ、親の価値観の反映でもある。

 

親の価値観が、過剰な期待に固執しているようでは、子どもがうまくやっていくための選択肢すら少なくなる。

 

 

夏休み明けに、学校に行きたがらないのは、当たり前のこと。

自分だって長期の休みのあとに職場に行きたくないと思うのと同じ。

 

わたしは、子どもに、

「もうすぐ2学期だね。学校行くのめんどくせーよね。笑」

と、声をかける。

案の定、子どもは「めんどくさい。」「行きたくない。」と答える。

これが、とても大事なことなのだ。

 

人間は、赤ちゃんのときから理性がある。

つまり、なんらかの空気を読める。

そのくらいの能力は当たり前にあるのだ。


子どもだって、「学校に行きたくないとか言ったらダメだよね」と当たり前に思っている。だけど、本音は「行きたくない」と思っているのだ。

(親だって、悪口は言ったらいけないとわかっている。だけど、家族の悪口や職場の悪口を、愚痴というもの変えて「愚痴ならいいよね」と勝手に折り合いをつけて発するだろう。大人の方が悪口のタチも悪い。)

 

子どもにも、本音を吐ける場所があるか?

 

 

そして、子どもに何も経験させてない問題も多い。

「ゲームばかりしてるんです。」という話が多いが、大いに結構。

ゲームばかりしているというよりは、ゲームしかできない環境なのではないか?

ゲームが好きなら、秋葉原に連れて行ったり、e-スポーツを見せたり(参加させたり)、ゲームのイベントに参加したり、行動する選択肢をどれだけ与えているか?

親に興味がないものは、子どもには経験させない可能性は高い。そのくせ、子どものことは、あーだこーだと心配する。

 

 

わたしは、海水浴が好きではない。

だけど、子どもには年に1回は海に連れて行っていた。

海水浴というものを経験させるため。

海水のしょっぱさ、浜辺の暑さ、本物のクラゲとの遭遇、足がつかない怖さ、波に流される体感、潮のベタベタ感・・

実際に経験しているのといないのでは、全く違う。

泳ぎが得意でなくても、海水浴は楽しいと感じているだけで、儲けものだと思っている。

 


そういった発想の転換が、親にどれだけあるか?結局、試されるのは大人の方なのだ。

 

 

 

子どもが当たり前に、存在することに慣れすぎているからこその、親の過剰な期待が存在する。

身近な人間の死と直面した時「とにかく生きていてほしい!」と思うのは誰だって同じはずだ。

 

 

子育てというのは、社会的に責任が取れる時間には限りがあるが、心育てに終わりはない。