石見銀山への寄り道。


前回の「『因幡の白兎』と茜。」では、
因幡の白兎という神話が人間のことを実によく表しているという話をした。

茜にフォーカスすると、白兎と重なる。という観点で、わたしなりの解釈を記した。

もっと言うなら、本物の神なら意地悪なことなど選択肢にないのだが、それもまた人間界を巧みに表しているということなのだ。

白兎は決して神ではない。
しかし、白兎の改心や言動を知った人間が、白兎を神として崇めたのだ。
いつの時代も、人間の「意識」によって物事は成り立っている。


さて、
その出雲大社に向かう途中、わたしは早々にナビの指示で高速道路から下ろされた。
初めて行く道中だが、次で高速道路を下りるのは早すぎるだろう…と、なんとなくわかる。
しかし、わたしはなかなかの方向音痴なので、とりあえず、ナビ通りに高速道路を下りた。


一般道を、どんどん進むのだが、道幅は次第に狭くなって行く。
すると、『石見銀山』を示す看板が、次々と出てくるのだ。

石見銀山・・・?
むかーし、銀を採掘していて、世界遺産にもなっている場所。
くらいの認識しかない。

こんなところにあるんだ…。


どんどん進んで行くと、山の峠を越えるような道になった。
さすが、世界遺産。まっすぐに舗装された広い道が山をのぼる。 
とても運転しやすい。しやすいのだが…

わたしの頭の中には、この道の過去の映像?のようなものが流れるのだ。

雑木林の中を人が1人歩けるくらいの道端で、くねくねした山道。太陽の光は、木漏れ日程度。

「うわぁ…ここ、すごい峠道みたいな…」
と、思わず独り言が始まる。

ーーえ?ここさぁ、男の人が総出?なかなか劣悪な環境…?体力的にも、若い男の人が多いか?今みたいに、防塵マスクとかないもんなぁ。

…たぶん、咳とか出始めて体調が悪くなって、使い物にならなくなったら、『帰っていいよ』と言われてたんやろなぁ。ーー

わたしの中で、独り言はまだ続き、


ーー次に、召集された人が、この道を歩いて登っていると、道の端々に、生き絶えた人の亡骸が何人も横たわっていたんやろなぁ…

ここを登りながら、自分も生きて帰れるかはわからないと、恐怖と絶望の時間やったよなぁ。ーー


・・おそらく、わたしは石見銀山の峠道に留まっていた魂も連れて、出雲大社に行かなければならなかったのだろう。
出雲に入ってホテルに着いてすぐ、石見銀山のことを調べてたら、わたしの頭の中に視えた様子と、似たような記事が書かれていた。


次の日、出雲大社に出向くと、そこには、4つの鳥居があった。

わたしは、石見銀山の魂たちを連れて行くには、どうしても、この4つの鳥居を歩いてくぐらなければならない気がしたのだ。
それは、連れてきた魂にとっても、必要なことだと感じて、心の中で、「さぁ、くぐるよ。しゃんと着いておいで。」と、魂たちに声を掛けて歩いた。

鳥居をくぐり終え、境内に入った途端に、わたしの意識から、石見銀山の魂たちのことはすっかり消えていた。
それは、おそらく・・・。




これを読んでいる方は、わたしよりも神社仏閣に興味があるのではないか?と思う。

出雲大社もぜひ参拝してみては?
ただし、何事もあなたの「意識」が大切だということを、お忘れなく。