レベル。


すべてのものに、レベルがある。
レベルを良し悪しで判断するのではなく、「違い」で判断できると、目に見えるものも見えないものも、これまでの見え方とは変わってくる。


人間にだってレベルはあるし、
神にだってレベルがある。

強い弱い、勝ち負け、できるできない、、、と言った目に見えるところで、レベルをつけたがるのは、ただ、誰にでもわかりやすく簡単だから。
そんなものが「正解」の基準になるはずもない。

結局は、目には見えないところのレベルをあげていけるかどうか。

だが、口で言うのは簡単で、これがなかなか難しい。
そして、時間もかかる。

だから、大半の人間は、手っ取り早くラクな方に魅力を感じる。

この話も、それが良いとか悪いとか、そういうことではなく、事実としてそうなんだという話なのだが、この話をするだけで、
「自分はラクな方に逃げてるからどーのこーの。」
と、勝手に自分責めが始まる人がいる。

そういう人間は、自分で自分の首を締めて、自分で自分を落ち込ませて、終わる。
自分責めをして、自分の世界の中で悲劇のヒロインにでもなったつもりで、それが快感なのかなんなのか。

「自分もラクな方にいくなー」
と事実を認識するということ。

そのあとに、自分がどうするのか。
そのまま、ラクな方に行くことを繰り返すのか、反対のステージに行くのか、それも、自分がどちらを選択しているのか自分の行動を認識しながら、事実を受け入れていくこと。

自分責めをして、自分を落ち込ませたとしても、その直後の行動から、結局なんにも変わってないのであれば、ただ、自分を責めることが好きなだけなのと、何も変わらない。


親に、バカみたいに
「ごめんなさい。」
を強要されたのかな。納得もすることもわからないうちから、「ごめんなさい。」を強要され、本来の『自分で考えて行動する』というレベルが、親の顔色を伺いながら行動するというレベルで刷り込まれ、その逃げ道が自分責めになっていったのか。

そして、
そういう親に限って、自分は謝らないケースも多く、バカのレベルは広い。

そして、そういう親ほど『子どものため』だと本気で思っている。確かに、子どもに愛情はある。
しかし、本当の愛を知らない。
だから、自分の愛情を怒りで表現するバカになる。

愛情を怒りで表現することは、当たり前だと思って年だけ取ってる人間もたくさん見てきた。
怒りなんてのは、バカでも表現できる。
そんなことすら知らずに。

何をどう表現するか?
それこそが、レベルと直結している。

自分がやってることが正解なのではなく、「それしかできない」だけなのだ。(自分の、ポテンシャルね。)
それを、受け入れられずに、あたかも「これが正解」だと振る舞うのは、結局、自分に言い聞かせてるだけじゃねーのか?って、話。


さぁ、時間は刻々と過ぎている。
残された時間、あなたのレベルはどこにとどまるつもりなのか。