向き合うセンス。


先日、幼なじみのAちゃんからLINEで連絡があった。

彼女とは、保育園の時からの付き合いの1人。
それぞれの道を進んで活躍している。

彼女は、学校の先生でありながら、ピアニストでもある。
長らく支援学校に勤めていた(はず)で、その後、不登校の子どものクラスを待つなど、いろいろな経験を積んでいる。

その彼女から「子どもが生まれたよ」の連絡。
彼女は、日本に住んでいるのだが、パートナーはペルー人。

実は、わたしの前前前世くらいは、ペルーにいたのでは?と思っていて、お香の『麻りあ』や、『龍球』の原点は、ペルー時代の記憶にあるのではないかと感じている。
(ペルーは、水晶やカカオの産地でもあるらしい。)

その、生まれた子どもの名前を教えてもらった時に、「zu(ず・づ)」の発音が含まれていた。

わたしは、
「ご主人は、zuの発音が難しいのでは?」
とすぐに尋ねると、
「そう!スペイン語にはzuの発音がないからね。」
と、返ってきた。(ペルーは、スペイン語が主流。過去の歴史が関係している。)

わたしは、
「zuを強く発音すれば、なんとかなるか?」
と、尋ねると、
「そうそう!そうやって、がんばって言ってるよ!いくちゃん、スペイン語の勉強した?」
と、返ってきた。

スペイン語の勉強はしてないのだが、なんとなくイメージが湧く。これも遠い昔の記憶だろうと、2人で納得した。


LINEのやりとりの中で、わたしは、コロナ禍で会ってない期間に起きた、茜との3年間の話を簡単にした。

親子関係、環境、子ども・他者との向き合い方・・いろんな課題に、茜の話は絡んでいる。
彼女もまた、自分の経験の話から、その課題に共感する。
学校の先生という立場からいろんなコンプライアンスも考えながら、主に子どもと向き合う。

わたしは、個人事業なので縛りがないぶん、ど直球に、主に社会人と向き合う。

しかし、彼女もわたしも、
相手が、子どもだろうが大人だろうが、関係ない!
ということが、大前提としてある。
子どもだろうが、大人だろうが、人間なのだ。
わたしたちは、人間と向き合っている。


やりとりの中で、彼女が、こんな話をしてくれた。


「ラクに暮らしたいって子が居てね。だから私、尋ねたのよ。
『あなたにとってのラクな暮らしって何?とりあえず、スケジュール教えて?』
って。
そしたら、具体的なことは出てこないわけ。

だから、私言ったのよ。
『ラクな生活を考えるのって、実はラクじゃないよね。でもさ、だからこそ何か思いついて、それに向かって行ったら凄いかもよ?』
って。それが、その子の卒業の時の宿題にしたのよね。」

と。


ーあなたにとってのラクな暮らしってなに?とりあえず、スケジュール教えて?ー


この切り返しは、センスだと思う。

「スケジュール教えて?」
この切り返しが、その子にとって、どれだけ衝撃だっただろうか。
なぜなら、普通なら、ラクな暮らしに対して頭から否定する大人が大半だからだ。
親にしろ、教師にしろ、よくわからない綺麗事を押し付ける傾向にある。それが親だと、それが教師だと真剣に思いこんで、「お前のために言ってんだ!」と綺麗事を並べて満足しているバカが溢れているから。


だけど、「スケジュール教えて?」という切り返しは、『自分の言葉を受け入れて、興味を持ってくれた。』と、感じるはずなのだ。

きっと、それまでも、彼女が子どもたちとこうやって向き合ってきたことが想像できる一言だった。


彼女は、
私が働きはじめて1年目だったら、『ラクな暮らしなんてないんだよ。働け!』って言ってたかもしれないなと思う。だけど、子どもたちと向き合ってるうちに、みんな苦しんでることに気づいたんだよね。」
と、話してくれた。

続けて、
「ラクをどう解釈しているのかでも違うだろうけど、現在その子は遠い学校に自転車で通い、夕方は毎日のように走っているみたい。
それは、少なくとも私の解釈のラクではない状態だけど。笑」
と、その後のことも話してくれた。

きっと、その子の、その行動に至るきっかけの1つに、彼女の「スケジュール教えて?」が、あるのではないかと、わたしは思う。


障害があろうとなかろうと、どうでもいい。
そんなことよりも、どんな人も、
『自分を大切にする』
ことが、とても大切なのだ。


しかし、彼女は、
「同じ肩書きでも、熱量も違えば解釈も違う。
『障害の有無ではなく、人としてどうアプローチするか。』だから「共生学習とか共生社会」とかの話になるとすれ違うことが多くなる。
向こうは『障害者を受け入れる社会』がベースで、私は『先ずは、自分を大切にする(広〜い意味で)』がベース。
ベースが違いというよりも、もはや言語が違うレベルで、すれ違いを感じてる。」
と、現状のことも話してくれた。


それはつまり、そもそも、大半の人間に、
『自分を大切にする』
という経験がない(自覚がない)からだろう。

『自分を大切にするということは、どういうことか?』と、自分としっかり向き合ったことがないまま、年だけ取ってきたということなのだろう。

だから、言語の違いレベルに至るまで、通じないのだろう。


大人にとって都合の良い人間を育てることが、子育てでもないし、教育でもない。
目に見えることはすべてキッカケであり、材料なのだ。
何のキッカケか?何の材料か?というと、『自分を大切にすること』への。


彼女が、等身大で子どもたちと向き合っている姿は、悩み考えながらも、目の前の問題とどう向き合うか?ということを楽しんでいるかのように感じた。
決して、自己犠牲ではなく。


「いくちゃんのやってることは、私にはできないなー。と思うけど、とにかく話を聞いてて、凄いけど、自己犠牲とは感じなかった。良い意味で悲壮感が無い!」
と、彼女も言ってくれた。


人と向き合うことは、同じ色のパズルのピースを合わせていくようなもの。

自分だって、周りの人間からすれば、同じこと。

常に、お互いさまなのだ。