先日から、『2つのストーリー』の原本をInstagramで再投稿している。
知っている人も知らない人も、楽しんでいただければと思うのと同時に、再投稿することで、改めてその当時を振り返り、再考するきっかけにもしたいと思っている。
ホームページにある『2つのストーリー』は原本の抜粋なので、書かれていないこともたくさんある。音羽が誰なのか。そこにも言及している。ぜひ、投稿を楽しみにしていただきたい。
さて、わたしは、スピリチュアルのカテゴリーに入るのだろうが、めちゃくちゃ現実的だと思っている。現実的というのは決して常識とか普通とかそういうことではない。
他の人にとってはそれは、常識はずれだとか奇跡だとかになるのかもしれないが、わたしの中では、「そういうもの」なのだ。だから、あまり不思議に思うことはないのだが、周りの人の感覚に合わせれば「不思議」になることが多い。
自分のことをそんな風に思っているので、自分の能力は使命だと認識はしているが、それが「神のつかい」だという認識はあまりない。
神のつかいという認識は、神を上に見ているというか、特別な存在というか、自分との関係性が上下にあるのではないかと思う。
わたしは、上下の関係だという認識がない。
おそらく、みんなは目の前に本当に神が現れたら、逃げだしたくなるほど怖いのではないかと察する。しかし、わたしはそんな感覚はなく、いつも同士なのだ。その理由の1つを過去のブログにも書いている。⇒『ROMIOとROMINI』
神だから、お金持ちだということではない。そもそも神界には「お金」というものが存在しない。お金は人間が作ったもの。なので神も、人間を通してその行方をいつも視ている。
だからか、「神のつかいに、欲は必要ない。」と言って、お金を受け取らない霊能者も多くいる。
わたしも、過去は無償でやっていたが、それは欲だなんだという理由ではなく、「ただの会話なのに、どこを商売にするのか?」ということと、「自分の能力よりも労力に簡単に値段をつけられない」というのが理由だった。
しかし、のちに、
「人間は、お金がかからないと真剣にならない。」
ということに気づいた。そこでようやく料金をつけた。それからというもの、金額には試行錯誤した。その人が真剣になれる金額が妥当なのだ。ということは、本来なら、人によって金額は変わるものなのだろうと思う。そこで、今の料金が、人間が真剣になれる最低金額ということで設定している。
なので、遊び半分で体験してみたいのなら、他のところに行くほうがよっぽど有意義なのだ。
わたしは、おそらくだが、、、例えば、霊能力で病気を治すこともできた(できる)のだと思う。しかし、それは封印されている。病気を治せるのだから、病気にすることもできる。麻薬は、薬にでも毒にでもなる。それと同じだ。
その能力を封印しているから、わたしは人間としてここに存在できている。今世だけではない。これまでも、たくさんの人間界を体験してこれた。人間として。
わたしが病気を治したら、それはわたしの人生なのだ。そこになんの意味があるのか。
病気になることが悪いことではない。そうならないと気づけないことだってたくさんある。
病気だけでなく、自分にとって不都合なことにだってすべて理由がある。
生きることが良いことで、死ぬことが悪いことでもない。
ただ、みんな、「人間として生きる選択をしてここにいる」のだ。
わたしも、こんな不自由な人間界にわざわざ降りてきた。信念を持って。4~5回目くらいになるだろうか。
今世にして、ドブネズミのような人間の世界も知った。
それこそ、「お金」というものにここまで考えたのも、今世が初めてだと思う。
前世や前前世で会った人たちに、今世でも再会して、今世の人生を歩んでいる。
わたしの『視心カウンセリング』は、心の中というか、魂を視るような感覚で、その人に『選択肢』を示すことだ。
(そこには、天使なども手伝ってくれるのだが。)
その選択肢から、その人が何を選ぶかは、その人の自由。(まぁ、半分の人は、結局逃げてしまう。)
わたしの示す選択肢は、「100%自分と向き合わくてはならない」ので、決してラクではない。しかし、一番の近道なのだ。
(そこまで向き合う人間が、わたし以外にはいないのではないかと、そこは自負している。)
だからこそ、本人が「真剣になる」ことが重要なのだ。
とはいえ、わたしは肩の凝るようなことを求めることはない。
どちらかというと、笑いの多いことなのだが、いかんせん、自分と向き合うことがしんどくなる。覚悟の質というか。
先日、ある方が体調が悪いというので、すかさず、
「小麦と塩ですね。」
とお伝えした。
すると、ご本人もしっかり自覚があったので、ひっくり返った。笑
小麦や塩が悪いということではなく、人によっては、合う合わないはあるし、合う合わないにしても、理由は様々だから、一概にこうだとは言えないのだ。
カラダはみんな同じなのだが、その機能や能力は人による。
だから、わたしは結局、1人1人を視心カウンセリングするしかないと思っている。
その人が持っている能力を最大限発揮して初めて人生は面白くなる。
わたしは、わたしの霊能力でそれを引き出すというよりも、『麻りあ』や『龍球』で、その人が自ら発揮しようとする伴走になれば、その人の人生を邪魔することなく、その人が自分の人生を謳歌できるのではないかと思っている。