わたしは、
思考が変われば、言葉が変わり、
言葉が変われば、行動が変わる。
と伝えてきた。
それが、人間の人生であり、人生はすべて自分が動かしていると。
その大元に、『価値観』があり、その価値観を広げてこそ、思考に繋がり、言葉に繋がり、行動に繋がる。
ということを指している。
なんらかのタイミングで、
自分の思考が変えなければならないと感じ、
「変わりたい」と言葉にして、
わたしの元に、尋ねてくる。(行動)
というのは、よくあること。
しかし、
本当の「行動」は、自分が自分に対してとる行動である。
何かのきっかけがあり、「変わりたい!」という思考になり、それを言葉にして、わたしに伝えてくる。
しかし。
わたしの元へ来たことで、
「行動した」と満足している人間が、実は多い。
つまり、
「幾重が、なんとかしてくれる。」
と思っているのだ。
わたしが魔法でもかけて、一瞬にして、救い出してくれると思っている。
これは、珍しくもなく、
要は、価値観が広がっていない証。
「人のせい」が当たり前の価値観のまま、
思考も、言葉も、解ったフリをして、それなりの態度で、わたしの前に表れているだけなのだ。
今までのことも、すべて、周りのせい。
周りのせいなのに、自分が一向に幸せにならない。
この見えないアリ地獄から抜け出したい。
わたしからの助言を、幾つも時間をかけ、聞いても、
何も変わらない。
なぜ?
・・・
自分の行動(行い)は、何も変わっていないからだ。
言い方を変えると、
覚悟を持てなければ、こうやって、一瞬で、元の自分のすがたに戻る。
(変わったつもりでいても、何にも変わっていない。)
ということの、証明なのだ。
コミュニケーションにおいて自信がないのをどうにかしたい!
と、言いながら、人と接することを避けている時点で、コミュニケーションをどうにかしたいという優先順位は、低いということになる。
痩せたい!
と、言いながら、痩せることに真剣にならないのは、痩せたいという優先順位は低いということになる。
優先順位の低いことに、覚悟を持つ方が難しい。
だから、わたしは、
『自分と向き合うこと』
と伝えている。
自分の優先順位もわからないのに、何をどうやって、自分の人生を操縦していくのか。
行いを変えるというのは、
小さなところからで、じゅうぶんだ。
これまでの行いと、何かを変えれば、これまでの自分とは違うということになる。
以前、こんな話を聞いた。
その家族は、奥さんが自分の凝り固まった価値観に嫌気がさしていた。
どうにかしたいが、何をどうしたらいいのかわからない。
子どもにも少なからず影響が出ていることもわかっていた。
不幸になりたいわけじゃないのに、どうしてこんなに空回りするのか。
・・・
人生を諦めてしまうまでに、悩んでいた矢先に、わたしと出会った。
それから、わたしのスパルタ指導が始まる。
奥さんの価値観のすべてに、わたしは「なぜ?」と尋ねた。
最初は、答えられなかったが、だんだん自分の育った環境が大きく影響力を持っていて、
親の価値観が、自分の価値観を支配していて、自分自身も身動きがとれないと、思い込んでいたのだ。
自分が身動きがとれないから、周りを動かすしかない。周りを動かそうとすればするほど、見えないアリ地獄にハマっていった。
というように、自己分析できるまでになった。
奥さんの思考や、言葉、行動が変わっていくと、子どもも自然と変わっていく。
穏やかな状態になりつつあった時に、
ご主人が、出張先からお土産を買ってきたという話をしてくれた。
さぞ、和やかな話かと思っていたら、
「うちの主人はセンスがない」
「子どもが食べないものを買ってくる」
と、お土産ひとつに、ここまで鬼になるか?と思うくらいの話だった。
それも、子どもと一緒になって、ごちゃごちゃ言っていたというから驚きだった。
「ご主人は、家族に意地悪をしようと思って、買ってきたのだろうか?」
「奥さんのことを鬼にするために、労力(時間とお金)をつかったのだろうか?」
と、奥さんに尋ねた。
「いや、たぶん主人は、わからなかったんだと思う。」
と、奥さんは答えてくれた。
わたしは、
「ならば、最初からお土産の指定をすれば済むことでは?」
と、提案したのだ。
わからなくて困っていると、わかっているなら、なぜ答えを教えてあげないのか。
その試験は、今後に繋がる意味のある試験なのか。
わからなくて困っている者を、答えも教えずに、吊るし上げて、それが何のためになるのか。
ましてや、子どもと一緒になって責めたてれば、子どもは母親が正義となり、当たり前に意地悪になる。
それを意地悪ではなく、正義だと認識するから余計に厄介だ。
つまり、
奥さんの元の価値観には、意地悪なものが、かなり隠れて存在していた。ということだ。
だから、
「主人はお土産のセンスがない」
と、決めつけ、毎回責め立てる。
その行いを、変えなければ、一生そのままなのだ。
次の機会に、奥さんはご主人にお土産の指定をした。
ご主人はきっと、走り回って探しただろう。
(そのお土産を知らなければ、お店に入ってもなかなか目には入ってこないものだ。)
ご主人は、指定通りのお土産を買ってきてくれた。
そして、奥さんはご主人に、
「ありがとう。」
と、素直に伝えた。
(心が鬼の人間が「ありがとう」を言ってるところを見たことがない。)
その後は、ご主人からもお土産の提案があったりと、些細なことでも夫婦の会話が増えていった。
(ご主人は、わたしにもお土産を買ってくださることもしばしばあった。)
今では、奥さんは経済的自立もしており、
ご主人とも、子どもたちとも笑いながら過ごしていることと思う。
奥さんも、家族の中だけでなく、職場でも人間関係に悩みながらも、わたしの教えを軸に、前向きに模索して行っているはずだ。
結局は、本人次第。
本人の行動(行い)が変わらなければ、一瞬で元通りになるだけなのだ。
思考が変われば、言葉が変わり、
言葉が変われば、行動が変わる。
と伝えてきた。
それが、人間の人生であり、人生はすべて自分が動かしていると。
その大元に、『価値観』があり、その価値観を広げてこそ、思考に繋がり、言葉に繋がり、行動に繋がる。
ということを指している。
なんらかのタイミングで、
自分の思考が変えなければならないと感じ、
「変わりたい」と言葉にして、
わたしの元に、尋ねてくる。(行動)
というのは、よくあること。
しかし、
本当の「行動」は、自分が自分に対してとる行動である。
何かのきっかけがあり、「変わりたい!」という思考になり、それを言葉にして、わたしに伝えてくる。
しかし。
わたしの元へ来たことで、
「行動した」と満足している人間が、実は多い。
つまり、
「幾重が、なんとかしてくれる。」
と思っているのだ。
わたしが魔法でもかけて、一瞬にして、救い出してくれると思っている。
これは、珍しくもなく、
要は、価値観が広がっていない証。
「人のせい」が当たり前の価値観のまま、
思考も、言葉も、解ったフリをして、それなりの態度で、わたしの前に表れているだけなのだ。
今までのことも、すべて、周りのせい。
周りのせいなのに、自分が一向に幸せにならない。
この見えないアリ地獄から抜け出したい。
わたしからの助言を、幾つも時間をかけ、聞いても、
何も変わらない。
なぜ?
・・・
自分の行動(行い)は、何も変わっていないからだ。
言い方を変えると、
覚悟を持てなければ、こうやって、一瞬で、元の自分のすがたに戻る。
(変わったつもりでいても、何にも変わっていない。)
ということの、証明なのだ。
コミュニケーションにおいて自信がないのをどうにかしたい!
と、言いながら、人と接することを避けている時点で、コミュニケーションをどうにかしたいという優先順位は、低いということになる。
痩せたい!
と、言いながら、痩せることに真剣にならないのは、痩せたいという優先順位は低いということになる。
優先順位の低いことに、覚悟を持つ方が難しい。
だから、わたしは、
『自分と向き合うこと』
と伝えている。
自分の優先順位もわからないのに、何をどうやって、自分の人生を操縦していくのか。
行いを変えるというのは、
小さなところからで、じゅうぶんだ。
これまでの行いと、何かを変えれば、これまでの自分とは違うということになる。
以前、こんな話を聞いた。
その家族は、奥さんが自分の凝り固まった価値観に嫌気がさしていた。
どうにかしたいが、何をどうしたらいいのかわからない。
子どもにも少なからず影響が出ていることもわかっていた。
不幸になりたいわけじゃないのに、どうしてこんなに空回りするのか。
・・・
人生を諦めてしまうまでに、悩んでいた矢先に、わたしと出会った。
それから、わたしのスパルタ指導が始まる。
奥さんの価値観のすべてに、わたしは「なぜ?」と尋ねた。
最初は、答えられなかったが、だんだん自分の育った環境が大きく影響力を持っていて、
親の価値観が、自分の価値観を支配していて、自分自身も身動きがとれないと、思い込んでいたのだ。
自分が身動きがとれないから、周りを動かすしかない。周りを動かそうとすればするほど、見えないアリ地獄にハマっていった。
というように、自己分析できるまでになった。
奥さんの思考や、言葉、行動が変わっていくと、子どもも自然と変わっていく。
穏やかな状態になりつつあった時に、
ご主人が、出張先からお土産を買ってきたという話をしてくれた。
さぞ、和やかな話かと思っていたら、
「うちの主人はセンスがない」
「子どもが食べないものを買ってくる」
と、お土産ひとつに、ここまで鬼になるか?と思うくらいの話だった。
それも、子どもと一緒になって、ごちゃごちゃ言っていたというから驚きだった。
「ご主人は、家族に意地悪をしようと思って、買ってきたのだろうか?」
「奥さんのことを鬼にするために、労力(時間とお金)をつかったのだろうか?」
と、奥さんに尋ねた。
「いや、たぶん主人は、わからなかったんだと思う。」
と、奥さんは答えてくれた。
わたしは、
「ならば、最初からお土産の指定をすれば済むことでは?」
と、提案したのだ。
わからなくて困っていると、わかっているなら、なぜ答えを教えてあげないのか。
その試験は、今後に繋がる意味のある試験なのか。
わからなくて困っている者を、答えも教えずに、吊るし上げて、それが何のためになるのか。
ましてや、子どもと一緒になって責めたてれば、子どもは母親が正義となり、当たり前に意地悪になる。
それを意地悪ではなく、正義だと認識するから余計に厄介だ。
つまり、
奥さんの元の価値観には、意地悪なものが、かなり隠れて存在していた。ということだ。
だから、
「主人はお土産のセンスがない」
と、決めつけ、毎回責め立てる。
その行いを、変えなければ、一生そのままなのだ。
次の機会に、奥さんはご主人にお土産の指定をした。
ご主人はきっと、走り回って探しただろう。
(そのお土産を知らなければ、お店に入ってもなかなか目には入ってこないものだ。)
ご主人は、指定通りのお土産を買ってきてくれた。
そして、奥さんはご主人に、
「ありがとう。」
と、素直に伝えた。
(心が鬼の人間が「ありがとう」を言ってるところを見たことがない。)
その後は、ご主人からもお土産の提案があったりと、些細なことでも夫婦の会話が増えていった。
(ご主人は、わたしにもお土産を買ってくださることもしばしばあった。)
今では、奥さんは経済的自立もしており、
ご主人とも、子どもたちとも笑いながら過ごしていることと思う。
奥さんも、家族の中だけでなく、職場でも人間関係に悩みながらも、わたしの教えを軸に、前向きに模索して行っているはずだ。
結局は、本人次第。
本人の行動(行い)が変わらなければ、一瞬で元通りになるだけなのだ。