テレパシー。


「幾重さんは、何かみえているのですか?」

こういったご質問を、会話の中で、よくいただく。



こういった質問の時に、わたしは一瞬、間を取るのだが、その間のわたしの正直な気持ちは、

わたしは、何も視えていないものを伝えるほうが難しいのだが、あなたは、なんにもないところから、人に話をすることがあるのか?

という、疑問に包まれている。


希望を込めた、想像なら、
「そうなるといいですね。」

という言葉を用いるし、


何もわからないときは、
「わたしには、わかりません。」

という言葉を用いる。


わたしが、断言しているときは、それ相応の事がわたしの中で揺るがないからこそ、断言できる。

決して、自分の感情に振り回されて、余計なことまで言ってしまうようなことは、ない。
どれだけ、大暴れしていても、頭の中ではとても冷静で、次に自分がどんな行動をとるか、何を言うか、瞬時に選択をしている。
(門下生は、その一部始終を見てきたので、この話には非常に納得することだろう。)



さて、わたしがやっていることは、おそらくテレパシーと言われることだと思う。
ほかにも、チャネリングなどの言葉もあるが、子どもの頃から、いちばん納得いく表現はテレパシーだ。


テレパシーで、相手がどんな思考の持ち主なのか、本音はなんなのか、そして、相手の魂は、何を訴えているのかということを、視ている。

わたしの場合は、守護霊などの他人はよくわからない。
(おそらく、興味がないのだろう。)

なので、わたしのところに案内されるのも、守護霊などの他人がどうこうよりも、本人の魂が必死になって思いを訴えているものが、わたしに届いたという解釈をしている。


『2つのストーリー』の話も同じで、
なぜ、わたしが長崎に?と不思議で仕方ない。
しかし、あの時、隠れキリシタンの魂たちは必死に訴えていた思いを、受け取る準備があったのが、わたしだったということだ。

(↑『 2つのストーリー』より抜粋)
そうやって、魂の思いをテレパシーで受け取るのだが、

人によっては、肉体の思考と、魂の思いが、必ずしも合致しているとは限らない。

そのため、わたしの話が、本人からすると、少しズレていると感じることも多々あるのだ。

わたしは、それもわかっているのだが、魂の思いを伝えることが、止められないため、相手にしてみたら、わたしから無理難題を突きつけられているように感じることもあるだろう。


無理難題と感じるのも、それは肉体の思考がそう感じるだけであって、魂はその人の魂なのだから、その魂が、その人の本当の部分。魂が求めるものは、すべてその人ができることなのだ。


魂は常に、「この人生の達成感を味わうには」といった主張をしている。


例えば、「プロスポーツ選手になりたい」だけなら、わたしのところには案内されない。
それなら、それなりの指導者のもとで、技術的、身体的なものを教わるのがいちばんだろう。

しかし、
「プロスポーツ選手というツールを通して、自分がどうあるべきか。自分に何ができるのか。」
という着眼点なら、わたしのところに案内される可能性はある。

つまり、『自分と向き合う』レベルであれば、わたしの伴走も必要になるだろう。



以前、とある会話の中で、

「私も、当時は〇〇万円くらい稼いでたんですよ。」

と言ってきた方がいる。
その方は、それで、自分の努力や価値を、わたしに認めてほしかったのかもしれない。

しかし、わたしが返したのは、

「だから?じゃあ、そのお金であなたに残ったものはなに?知識・教養・見聞で、あなたが残せたものは何?お金を残したって仕方ない。お金は残らないことくらい知ってる。だけど、そのお金と引き換えに、あなたの中で、誰からも奪われない本当の資産として、何が残せたの?」

ということだった。

「そうですよねぇ・・・」



お金があれば幸せで、お金がなければ幸せじゃないのか。果たして本当にそうなのか。

普通に考えて、家族を待てば、お金を使うことも増える。そんなこと、誰だってわかっている。それでも、家族を持ちたいと思う人が大半なのは、

幸せは、お金ではないことを知っているからではないのか?

お金がなくなっても、楽しいばかりじゃないことを知っていても、それでも、その先に『幸せがある』と信じてやまないから、家族を持つ選択をするのではないのか?

家族だけではない。
仕事でも、趣味でも、なんでもいい。
『生きがい』にこそ、幸せがあることを、みんなは知っている。


生きがいだと思っていることにも、やがて変化が出てくる。

『生きがい』の土台に、『自分はどう在るか』ということの重要性に気づく時が、必ず来る。

それが、今なのか、死の淵なのか。タイミングは人それぞれだが、必ず来る。




わたしが、初めて施術を教えたセラピストがいるのだが、彼女が、こんな話をしてくれたことがある。


彼女が、訪問型の施術サロンを始めたときに、知り合いを通して、予約が入った。

そこは、とある個人経営の医療機関なのだが、院長が重い病で、自宅で寝たきり状態だった。
その院長に、施術をしてほしいということだった。
いわゆる、緩和ケアのような内容だったので、施術前にも、わたしは施術のアドバイスをしていた。

施術をしてみると、院長は寝たきりだが、簡単な会話はできるようで、彼女は細心の注意を払いながら進めていった。

短いスパンで、再度、ご予約が入ったらしく、気に入ってくれたのだろうと嬉しく思いながら、施した。


その帰りに、彼女から、わたしに連絡があり、
「今、帰りなのだけど、ちょっとサロンに寄ってもいい?」

と。
わたしは受け入れて、話を聞くと、

「なんか、その院長の扱われ方がね・・」

と言いながら、彼女は泣き出してしまった。
わたしは、彼女を通して、その院長を視て、

「あー、その院長は、元気な時に、人の話を聞かなかったんじゃない?」

と、伝えた。
彼女は、

「そう!もう、それはものすごいワンマンだったみたいでね。スタッフもみんな振り回されてたみたい。だから、未だに院長は、みんなから嫌われてる。

でもね・・、今の院長には、もう、その時の面影もないんよ。トゲが全部、抜け落ちて、ツルツルになってるんよ。だけど、周りはみんな、それを見ようともしてなくて。」

と、涙ながらに話してくれた。
わたしは、

「だから、あなたが呼ばれたのでは?」

と、伝えた。

「人間の心って、簡単じゃないのよ。それまでに傷付けられた人もたくさんいるんだと思う。病気だからって、とてもじゃないけど優しくなんてできない!と、腹を括ってしまったんだと思う。
院長もそれを感じているから、静かに過ごしているのでは?そこに、あなたが現れて、束の間でも、院長の思いを汲み取れたのなら、院長も良かったのだと思う。」

そう伝えて、彼女に乗っかっていたマイナスエネルギーを浄化した。


「あなたが、みんなの仲を取り持つ必要もない。あなたは、あなたの仕事を誠実にやることよ。」

と伝えると、

「そうだよね!なんか、元気が出てきた。私が他人の人生まで抱える必要ないよね!そこを求められてるわけでもないし。ありがとう!」

と、笑顔で帰っていった。



『自分がどう在るか(どう在りたいのか)』

他人事の話ではなく、全員の魂が訴えていること。




わたしは、わたしを必要としている魂の訴えを、テレパシーでそれを受け取ることを生業としている。