10月の後半から、あらゆるところから情報が入って来るようになった。
Instagramのストーリーズにも、一部シェアしているが、科学の見解が、スピリチュアルと重なるようになってきている。
人間(生物すべて、地球すべて)は、そもそもスピリチュアルなものだ。
科学だけを信じて、スピリチュアルを信じないという考えは、自分自身の存在自体を、どう説明するつもりなのか。
目に見えるものだけを信じるというのは、存在を認識できるか否かだけのレベルで、信じるレベルには値しないように感じる。
わたしは、子どもの頃から、自分の様々な認識を、わざわざ人に言わずにいた。
当たり前すぎて、言う必要もなかった。
例えば、
向こうに見える人のシャツが出ていたら、こっちで、「あの人、見て、シャツが出てる。」と、わざわざコソコソと共有したがる人間が多いが、こういう行動に共感しないで来た。
わたしは、シャツが出てるからなんなのか?それが、マイナスなことなら、本人に教えてあげることだと思う。
だから、自分に視えているものを、いちいち誰かに言わなくても、じゅうぶん生きて来れた。
視えているものと、わたしの双方が、納得していればそれで良い。
なので、共感万歳の人間とつるむことを、自然として来なかった。
それでも、これを仕事にするようになってからは、わたしも、自分の視えていることを伝え、それを受け入れてもらえている。
そんな中、わたしの言ってきたことと同じことを、いろんな立場の方々が、いろんな場所で、伝えていることを知るようになった。
宇宙人の話も、至る所で伝えられているが、その話もわたしは納得する。
(内容を話すと長くなるので、また別の機会があれば。)
山伏や八咫烏の正体なども、わたしが視えたものと一致している。
(八咫烏がなんなのか知らなかったが『カラス一族』として視えたときがあった。それが八咫烏と言われる存在のことだと、後に答え合わせする機会があった。)
宇宙人やUFOにしても同じ。わたしが感じていることと、同じことを伝えている人が何人もいることを知った。
例えば、UFOも、見せる相手を選んでいるということ。その理由もちゃんとあるということ。
最近でも、とある方が初めてお越しになったときに、UFOが出現した。
それは、おそらくその方への『メッセージ』を伝えてきたのだろうとわたしは感じている。
『UFOが現れた』ことがすべてではなく、課題が示され、そこからその課題に向けて試行錯誤して行かなければならないのだ。
何が言いたいかというと、
『自分の意識がどこにあるか?』
ということ。
「他人のシャツが出ていること」という事象にだけ意識があるのか、
「他人のシャツが出ている」という事象から、「本人に伝えた方が結果として良いのではないか」という未来予測(見通し)をして、最善の結果を果たすには、自分が何をするべきかと考えるという意識があるのか、
目の前の事実は同じだが、数秒後の事実は違う。
そして、それに伴い、意識レベルも、魂レベルも変わってくる。
何かが視えた!何かが聞こえた!
だから、なんなのか。
視えた、聞こえた、という事象にしか意識がないなら、ただ、「視えるだけの人」「聞こえるだけの人」なのだ。
そんな意識レベルなら、その程度のものしか視えないし、聞こえない。
結局、周りの人間を、不安や恐れに陥れるだけ。
そんなの、ゾンビと同じではないか。
この話は人間界でも同じ。
同じ練習をしても、意識がどこにあるかで、上達具合に違いが出るのは当たり前だ。
料理や、ものづくりも同じ。
レシピ通りに作っても、完成はするのだが、何を意識しているかで、付随するものに違いが出る。
自分優先の意識なら、なぜか冷たさを感じるし、
相手を思いやる意識なら、温かみを感じる。
悲しみを抱えた意識なら、寂しさを感じるし、
前向きな意識なら、明るさを感じる。
つまり、すべてにおいて、目には見えない意識が必ず付随してくるのだ。
そういうと、金属ならどうかと思うかもしれない。
どれも無機質で、そこに意識などない。と思う人もいるかもしれない。
しかし、そうではない。
サビや、劣化のスピード。修復してもすぐに傷むなど、必ずなんらかのサインが出る。
車でも、そう感じたことはないだろうか。
ほぼほぼ、ロボットで作られている。もちろん、ネジなどの部品の一部は手作業だろう。
しかし、だいたいトラブルが起こるのは、システム上のものだ。
なのに、よく故障するもの、全く故障しないものが、存在する。
そして、
「そろそろ、車を買い替えたいなー」
と思った途端に、乗っている車が故障しだすという経験がある人もいるだろう。
気のせいか?
気のせいにしては、同じような事案が多いと思うが。
・・
わたしは、「無機質なモノにも、神は宿る。」ということを知っている。
人間はすでに「意識」を持っている。
あなたは、あなたの「意識」をどこまで認識し、あなたの「意識」どこまで受け入れているか。
自分を信じるとは、自分の「意識」を信じきるということだ。
Instagramのストーリーズにも、一部シェアしているが、科学の見解が、スピリチュアルと重なるようになってきている。
人間(生物すべて、地球すべて)は、そもそもスピリチュアルなものだ。
科学だけを信じて、スピリチュアルを信じないという考えは、自分自身の存在自体を、どう説明するつもりなのか。
目に見えるものだけを信じるというのは、存在を認識できるか否かだけのレベルで、信じるレベルには値しないように感じる。
わたしは、子どもの頃から、自分の様々な認識を、わざわざ人に言わずにいた。
当たり前すぎて、言う必要もなかった。
例えば、
向こうに見える人のシャツが出ていたら、こっちで、「あの人、見て、シャツが出てる。」と、わざわざコソコソと共有したがる人間が多いが、こういう行動に共感しないで来た。
わたしは、シャツが出てるからなんなのか?それが、マイナスなことなら、本人に教えてあげることだと思う。
だから、自分に視えているものを、いちいち誰かに言わなくても、じゅうぶん生きて来れた。
視えているものと、わたしの双方が、納得していればそれで良い。
なので、共感万歳の人間とつるむことを、自然として来なかった。
それでも、これを仕事にするようになってからは、わたしも、自分の視えていることを伝え、それを受け入れてもらえている。
そんな中、わたしの言ってきたことと同じことを、いろんな立場の方々が、いろんな場所で、伝えていることを知るようになった。
宇宙人の話も、至る所で伝えられているが、その話もわたしは納得する。
(内容を話すと長くなるので、また別の機会があれば。)
山伏や八咫烏の正体なども、わたしが視えたものと一致している。
(八咫烏がなんなのか知らなかったが『カラス一族』として視えたときがあった。それが八咫烏と言われる存在のことだと、後に答え合わせする機会があった。)
宇宙人やUFOにしても同じ。わたしが感じていることと、同じことを伝えている人が何人もいることを知った。
例えば、UFOも、見せる相手を選んでいるということ。その理由もちゃんとあるということ。
最近でも、とある方が初めてお越しになったときに、UFOが出現した。
それは、おそらくその方への『メッセージ』を伝えてきたのだろうとわたしは感じている。
『UFOが現れた』ことがすべてではなく、課題が示され、そこからその課題に向けて試行錯誤して行かなければならないのだ。
何が言いたいかというと、
『自分の意識がどこにあるか?』
ということ。
「他人のシャツが出ていること」という事象にだけ意識があるのか、
「他人のシャツが出ている」という事象から、「本人に伝えた方が結果として良いのではないか」という未来予測(見通し)をして、最善の結果を果たすには、自分が何をするべきかと考えるという意識があるのか、
目の前の事実は同じだが、数秒後の事実は違う。
そして、それに伴い、意識レベルも、魂レベルも変わってくる。
何かが視えた!何かが聞こえた!
だから、なんなのか。
視えた、聞こえた、という事象にしか意識がないなら、ただ、「視えるだけの人」「聞こえるだけの人」なのだ。
そんな意識レベルなら、その程度のものしか視えないし、聞こえない。
結局、周りの人間を、不安や恐れに陥れるだけ。
そんなの、ゾンビと同じではないか。
この話は人間界でも同じ。
同じ練習をしても、意識がどこにあるかで、上達具合に違いが出るのは当たり前だ。
料理や、ものづくりも同じ。
レシピ通りに作っても、完成はするのだが、何を意識しているかで、付随するものに違いが出る。
自分優先の意識なら、なぜか冷たさを感じるし、
相手を思いやる意識なら、温かみを感じる。
悲しみを抱えた意識なら、寂しさを感じるし、
前向きな意識なら、明るさを感じる。
つまり、すべてにおいて、目には見えない意識が必ず付随してくるのだ。
そういうと、金属ならどうかと思うかもしれない。
どれも無機質で、そこに意識などない。と思う人もいるかもしれない。
しかし、そうではない。
サビや、劣化のスピード。修復してもすぐに傷むなど、必ずなんらかのサインが出る。
車でも、そう感じたことはないだろうか。
ほぼほぼ、ロボットで作られている。もちろん、ネジなどの部品の一部は手作業だろう。
しかし、だいたいトラブルが起こるのは、システム上のものだ。
なのに、よく故障するもの、全く故障しないものが、存在する。
そして、
「そろそろ、車を買い替えたいなー」
と思った途端に、乗っている車が故障しだすという経験がある人もいるだろう。
気のせいか?
気のせいにしては、同じような事案が多いと思うが。
・・
わたしは、「無機質なモノにも、神は宿る。」ということを知っている。
人間はすでに「意識」を持っている。
あなたは、あなたの「意識」をどこまで認識し、あなたの「意識」どこまで受け入れているか。
自分を信じるとは、自分の「意識」を信じきるということだ。