百合若と白嵩神社。②


この白嵩神社は、地元の方々に代々守られてきている。

 

創建が814年(平安時代)となっており、その時からご祭神は百合若大臣と記されている。この年代も、百合若の時代と重なる。


しかし、1586年の戸次川の合戦(大野川合戦)の際、島津軍がこの白嵩神社を陣取り、その時に、ご神体を下の渕に埋め、社は残らず焼き払われたという歴史がある。

 

その後の言い伝えは、以下の通り。


1644年7月29日の夜のこと、とある男性が魚を獲りに川に出かけ、網を川に投げた。

すると、魚はまったく獲れずに1つの宝剣が網に引っかかっていた。


「なんだこれ?」


そう言うと、男は宝剣を川に捨て、また網を投げた。網を引き揚げてみると、さっきと同じ宝剣だけが網の中にあった。


「おかしいな。」


男は、宝剣を遠くに投げ捨て、再び網を投げた。網を引き揚げてみると、さっきとまるっきり同じように網の中には宝剣が。


「なんだこれ。3回も、同じ宝剣が引っかかったぞ?不思議なこともあるもんだ。」

 

そう言うと男は、その宝剣を自分の腰にかけ、また網を川に投げた。


すると、今度は、大量の魚が網にかかり、ビックリ!

男は、大喜びで、魚と宝剣を家に持って帰り、出来事を妻に話した。


妻も大喜びし、この不思議な宝剣を家に飾った。



夜中、眠りについた頃、家の中が強い光に包まれた。光に気づいて、目を覚ますと、今度はガタガタと家鳴りがする。

何事かと思ったら、この宝剣から光が出ている。


妻は男に、

「この宝剣は、きっとただものではないはず。姫之宮(姫之宮春日社)に持って行っては?」

と言うと、

男も納得し、朝を待ち、姫之宮に持って行き、納めた。


すると、姫之宮でも、光を放ち家鳴りがした。

それに気づいた、近隣の人たちが、早く何とかした方が良いと言い、今度は高田若宮(若宮八幡宮)に納めた。

そこでも、光を放ち家鳴りがし、どうすることもできないので、法心寺に奉納した。


すると、法心寺の住職(覚仙院日躰上人)の枕元に立ち(神仏が夢に現れ、ある物事を告げること)、


「我は種具白嵩大権現(たねぐしらたかだいごんげん)なり。

※大権現・・神仏が仮の姿で現れたもの。神号のひとつ。


我を白嵩のあった御山に祀るならば、

町の繁栄、悪退散、火災守護、家内安全を祈り、五穀豊穣、悪病退治いたす。」


と、告げられた。

同じ夢を、三夜続けて見た住職は、これは不思議なことだと驚き、首藤惣三郎に知らせ、仲間と直ちにその宝剣を迎えに行った。


惣三郎の家にて、3日間お経をあげた。その間、御山に岩穴を掘り、その後、3年に渡りその中に宝剣を納め置いた。

その後、1647年(江戸時代初期)に神殿・廊下・拝殿を新築。


その年より毎年、法心寺より2月朔日(月初め)に、お経をあげることとなり、それはおよそ215年ほど続いた。


1843年、首藤三郎の発起により、世話人数人と、神殿・廊下・拝殿を再新築する。


明治5年、政府の神仏分離政策により神道となった。今日まで約400年に渡り、地元住人が代々保護・保存している。



これは、首藤氏に受け継がれる資料の内容を、わたしなりに解釈したもの。

百合若が白嵩大権現となり、守護する約束をしたというものが、資料として残っていることも驚きだ。


Kさんが、今年の11月に入り、再び、白嵩神社と百合若のことが気になり出した頃、

わたしは、2022年11月に京都の東寺の弘法市で購入した精麻の使い道を考えていた。
その時、わたしに降りてきたのは『注連縄(しめなわ)』だった。

「注連縄かぁ・・・」

と思いながらも、縄をなう練習をしてみた。
その数日後、Kさんと話す中で、Kさんから白嵩神社の話や百合若の話、そして『注連縄』の話になった。

「やっぱり注連縄か・・」

わたしは、精麻を使って注連縄を作ることにした。
そう思ってから、次の日には1人で製作に取り掛かり、それは集中し、そして心は楽しく取り組んだ。

すると、2日後の新嘗祭の日に奉納する運びとなり、タイミングがピタリと合った。


実は、それまでの間に、Kさんの夢に百合若からのメッセージが降りていた。
それに従って、Kさんは地元の自治会長に連絡し、奉納の話を伝えた。

自治会長、副会長、総代の方々が、快く受け入れてくださり、奉納は無事に執り行われた。
奉納の直後、太陽の陽射しがものすごく強くなり、記念写真を撮ろうとしたが、あまりの陽射しの強さで外では写真が撮れないほどだったという。


そして、その時にも、Kさんには百合若を感じていたようだ。


百合若の守護は、参拝者にも約束されるだろう。