会話とは、話し手の価値観でパターンが決まると言っても過言ではないだろう。
わたしは、これまで、誰かと会話をする中で、どうでもいい無駄話をしたことはないと思っている。
ただし、これはわたしの主観であり、相手はそのことには気づかず、わたしの話を無駄話だと片付けることも多々ある。
まだ、門下生がスタッフとして、わたしの周りにいた頃の話。
それは、門下生との会話でも同じで、
わたしは何気なく、自分の思い出話を話しているようにしながらも、とても大事なことを伝えていることもある。
いつも、かしこまった空気では、聴く側も飽きてしまう。なので、様々な雰囲気で会話をしていく。
しかし、門下生からしたら、
「これは、自分には関係ないことだ。」
と、そのときに感じたのだろう。
なので、相槌はするが、わたしの話は受け取らずにいたようだ。
わたしはわたしで、この話の意味が届いてないのでは?と違和感を感じて、月に一度のペースくらいで、同じ話をしていた。
すべてにおいて、門下生は変わらずに相槌を打ってくれる。
しかし、答え合わせの時は来たのだ。
わたしが話してきた内容とほぼ同じことを、門下生の1人が起こした。
わたしは、
「あのとき、これと同じ例え話を、わたしの思い出話と重ねて伝えたよね?」
と、尋ねた。
すると、その門下生は、
「え?聞いていません。」
と、驚いた表情で言った。
わたしは、とても驚いたが、茜にもこの話を確認した。
すると、茜は、
「その話は、何回も聞いたよ。」
と言った。
わたしは、この驚きが、『残念』という思いに変わっていくのを感じた。
そして、数日後、別の門下生にこの話をすると、
なんと、その門下生も、
「聞いていない。知らない。」
と、言ったのだ。
わたしは、あの時、特にこの門下生2人に対して伝えたかったのだが、ピンポイントに伝わっていなかった。
わたしは、その話を、まつおさんに話したら、
まつおさんは、
「その話、私が大分出張で行ったときも、いくちゃんは話していたよ。だから、わたしも聞いたよ。」
と、言った。
・・・
わたしの『残念』という思いも、ここで答え合わせができたのだ。
いくら、伝えても、相手がそれを受け取る気が無ければ、なかった事と同じ。
そもそも、何のためにわたしの側にいたのか?
自分に都合の良い部分だけを間引いて受け取る時点で、何も変わらない。
なぜなら、それまで、自分の価値観でやってきて、うまくいかなかったから、わたしに近づいたはずだ。
それなのに、結局また、自分の価値観を基準にするなら、わたしの側にいる必要はないのだ。
その話をすると、門下生は、
「おそらく、それすらも無意識の癖になっていて、自分がまさか自分の判断で間引いている自覚すらなかったんです。」
と、話してくれた。
思考の癖というのは、油汚れやヘドロなど、厚くまとわりついているような状態だ。
おそらく、その自覚さえない状態で、
「変わりたい」
と夢を見ても、それは妄想であり、
「変わりたい」
と、思った日から、まずは自分にまとわりつく、ヘドロと向き合わなければ、本当に変わる事は難しい。
ただ、そのヘドロがついているのも、自分についているのだ。
他人ではなく、自分についているのだから、自分の構造は自分がいちばんわかるはずなのだ。
ということは、その自分と本気で向き合う覚悟さえあれば、「本当に変わる」ことはできる。
今年の10月の後半から、いろいろな情報が入ってくる。
その中で、いろんな方が動画を通して情報を配信しているものもたくさんある。
人間の目線から話をしているので、とてもわかりやすくなっており、感心する。
わたしは、
それらの情報を、わたしの周りの方にもシェアをすることがあるのだが、いろんなジャンルの内容となるので、中には、
「今の自分には関係ないだろう」
と判断されている場合もあるだろうと思う。
しかし、「今」の自分には関係ないように思えても、「明日」の自分には関係があることも、あるのだ。
つまり、わたしは、関係のない人に関係の無い動画のシェアなど一切していない。
(関係のないことをして、何の意味があるのか。)
それは、わたしがお伝えする『言葉』も同じこと。
難しく、すぐには理解できないこともあるだろう。
「この話が、自分になんの関係があるのか?」
と思う場面もあるだろう。
しかし、わたしがお伝えする『言葉』が無駄だったことは、ひとつもない。
ただ、その方が、その『言葉』を受け入れず、そのまま流れ過ぎてしまったのなら、『無かったこと(無駄)』になるだろう。
(このパターンなら、ごまんといる。そして、後になって気づき、泣くような思いをする。)
以前、大阪出張の時に、
とあるお客様が、どうしても会ってもらいたい人がいると、とあるカフェで待ち合わせをした時のこと。
お越しになったのは、お客様の職場の方で、お客様と一緒だった。
相談内容を聞いた後、
わたしの質問(わたしの中では答え合わせ)が始まった。
わたしからすれば、確認事項なので、一貫性があるのだが、その方からしたら、
「それが、なんの意味があるのですか?」
と、いうような表情をしながらも、わたしの質問に答えてくれた。
1時間ほど経っただろうか。
わたしの中では、もう結論は出ていた。
しかし、それを伝えても、その方はピンとこない。
わたしは、一貫して伝える。
そして、その方が、
「でも、それって〇〇ですよね。」
と、ぽろっと言ったのを、わたしがすぐさま、
「だから、
△△だから、〇〇なんですよね?
さっき、△△って言ってましたよね?」
と言うと、その方は、ハッとした表情をして、
「そうです!」
と大声で言った。
わたしは、
「さっきから、ずっと言ってますよね?わたし。」
と言うと、その方は、目を丸くしたまま、
「確かに言ってました!えー!じゃあ、あの質問も、ここに繋がるじゃないですか!
えー!そゆこと?ちょっと鳥肌が立ってるんですけど!
いや、ホントに質問の意図が全くわからなくて、
『この人、大丈夫かな?』
くらい、思ってたんですよ!
いやー、大丈夫やなかったのは、自分の方でした。
本当にごめんなさい。そして、ありがとうございます!」
と、話してくれた。
大笑いするわたしの横で、今回、紹介した側のお客様が、
「は?『大丈夫?』とか思ってたん?なんてことを!もう!しっかり謝って!」
と、追い討ちをかけていた。
その方は、
「質問されている意図が、1ミリもわからなかった!」
と何度も何度も言っていて、
「まさかの展開!初めての感覚、」
と、その後の1時間ほどは、『ビックリした』ということをずっと話してくれた。
人間の目線、人間の感覚は、一人一人違う。
そして、直感と思考の区別がついていない人間もたくさんいるので、直感にアクションしても、思考がリアクションしてくることもあり、そこでまた、糸が絡まり、時間がかかる。
わたしのところに案内された意味は、必ずあり、わたしがお伝えする『言葉』は、
あなたに必要なことを、あなたに伝えているのだ。
わたしは、これまで、誰かと会話をする中で、どうでもいい無駄話をしたことはないと思っている。
ただし、これはわたしの主観であり、相手はそのことには気づかず、わたしの話を無駄話だと片付けることも多々ある。
まだ、門下生がスタッフとして、わたしの周りにいた頃の話。
それは、門下生との会話でも同じで、
わたしは何気なく、自分の思い出話を話しているようにしながらも、とても大事なことを伝えていることもある。
いつも、かしこまった空気では、聴く側も飽きてしまう。なので、様々な雰囲気で会話をしていく。
しかし、門下生からしたら、
「これは、自分には関係ないことだ。」
と、そのときに感じたのだろう。
なので、相槌はするが、わたしの話は受け取らずにいたようだ。
わたしはわたしで、この話の意味が届いてないのでは?と違和感を感じて、月に一度のペースくらいで、同じ話をしていた。
すべてにおいて、門下生は変わらずに相槌を打ってくれる。
しかし、答え合わせの時は来たのだ。
わたしが話してきた内容とほぼ同じことを、門下生の1人が起こした。
わたしは、
「あのとき、これと同じ例え話を、わたしの思い出話と重ねて伝えたよね?」
と、尋ねた。
すると、その門下生は、
「え?聞いていません。」
と、驚いた表情で言った。
わたしは、とても驚いたが、茜にもこの話を確認した。
すると、茜は、
「その話は、何回も聞いたよ。」
と言った。
わたしは、この驚きが、『残念』という思いに変わっていくのを感じた。
そして、数日後、別の門下生にこの話をすると、
なんと、その門下生も、
「聞いていない。知らない。」
と、言ったのだ。
わたしは、あの時、特にこの門下生2人に対して伝えたかったのだが、ピンポイントに伝わっていなかった。
わたしは、その話を、まつおさんに話したら、
まつおさんは、
「その話、私が大分出張で行ったときも、いくちゃんは話していたよ。だから、わたしも聞いたよ。」
と、言った。
・・・
わたしの『残念』という思いも、ここで答え合わせができたのだ。
いくら、伝えても、相手がそれを受け取る気が無ければ、なかった事と同じ。
そもそも、何のためにわたしの側にいたのか?
自分に都合の良い部分だけを間引いて受け取る時点で、何も変わらない。
なぜなら、それまで、自分の価値観でやってきて、うまくいかなかったから、わたしに近づいたはずだ。
それなのに、結局また、自分の価値観を基準にするなら、わたしの側にいる必要はないのだ。
その話をすると、門下生は、
「おそらく、それすらも無意識の癖になっていて、自分がまさか自分の判断で間引いている自覚すらなかったんです。」
と、話してくれた。
思考の癖というのは、油汚れやヘドロなど、厚くまとわりついているような状態だ。
おそらく、その自覚さえない状態で、
「変わりたい」
と夢を見ても、それは妄想であり、
「変わりたい」
と、思った日から、まずは自分にまとわりつく、ヘドロと向き合わなければ、本当に変わる事は難しい。
ただ、そのヘドロがついているのも、自分についているのだ。
他人ではなく、自分についているのだから、自分の構造は自分がいちばんわかるはずなのだ。
ということは、その自分と本気で向き合う覚悟さえあれば、「本当に変わる」ことはできる。
今年の10月の後半から、いろいろな情報が入ってくる。
その中で、いろんな方が動画を通して情報を配信しているものもたくさんある。
人間の目線から話をしているので、とてもわかりやすくなっており、感心する。
わたしは、
それらの情報を、わたしの周りの方にもシェアをすることがあるのだが、いろんなジャンルの内容となるので、中には、
「今の自分には関係ないだろう」
と判断されている場合もあるだろうと思う。
しかし、「今」の自分には関係ないように思えても、「明日」の自分には関係があることも、あるのだ。
つまり、わたしは、関係のない人に関係の無い動画のシェアなど一切していない。
(関係のないことをして、何の意味があるのか。)
それは、わたしがお伝えする『言葉』も同じこと。
難しく、すぐには理解できないこともあるだろう。
「この話が、自分になんの関係があるのか?」
と思う場面もあるだろう。
しかし、わたしがお伝えする『言葉』が無駄だったことは、ひとつもない。
ただ、その方が、その『言葉』を受け入れず、そのまま流れ過ぎてしまったのなら、『無かったこと(無駄)』になるだろう。
(このパターンなら、ごまんといる。そして、後になって気づき、泣くような思いをする。)
以前、大阪出張の時に、
とあるお客様が、どうしても会ってもらいたい人がいると、とあるカフェで待ち合わせをした時のこと。
お越しになったのは、お客様の職場の方で、お客様と一緒だった。
相談内容を聞いた後、
わたしの質問(わたしの中では答え合わせ)が始まった。
わたしからすれば、確認事項なので、一貫性があるのだが、その方からしたら、
「それが、なんの意味があるのですか?」
と、いうような表情をしながらも、わたしの質問に答えてくれた。
1時間ほど経っただろうか。
わたしの中では、もう結論は出ていた。
しかし、それを伝えても、その方はピンとこない。
わたしは、一貫して伝える。
そして、その方が、
「でも、それって〇〇ですよね。」
と、ぽろっと言ったのを、わたしがすぐさま、
「だから、
△△だから、〇〇なんですよね?
さっき、△△って言ってましたよね?」
と言うと、その方は、ハッとした表情をして、
「そうです!」
と大声で言った。
わたしは、
「さっきから、ずっと言ってますよね?わたし。」
と言うと、その方は、目を丸くしたまま、
「確かに言ってました!えー!じゃあ、あの質問も、ここに繋がるじゃないですか!
えー!そゆこと?ちょっと鳥肌が立ってるんですけど!
いや、ホントに質問の意図が全くわからなくて、
『この人、大丈夫かな?』
くらい、思ってたんですよ!
いやー、大丈夫やなかったのは、自分の方でした。
本当にごめんなさい。そして、ありがとうございます!」
と、話してくれた。
大笑いするわたしの横で、今回、紹介した側のお客様が、
「は?『大丈夫?』とか思ってたん?なんてことを!もう!しっかり謝って!」
と、追い討ちをかけていた。
その方は、
「質問されている意図が、1ミリもわからなかった!」
と何度も何度も言っていて、
「まさかの展開!初めての感覚、」
と、その後の1時間ほどは、『ビックリした』ということをずっと話してくれた。
人間の目線、人間の感覚は、一人一人違う。
そして、直感と思考の区別がついていない人間もたくさんいるので、直感にアクションしても、思考がリアクションしてくることもあり、そこでまた、糸が絡まり、時間がかかる。
わたしのところに案内された意味は、必ずあり、わたしがお伝えする『言葉』は、
あなたに必要なことを、あなたに伝えているのだ。