呼ばれる?呼ばれない?


こういう生業をしていると、

「〇〇に旅行に行くのですが、オススメの神社とかありますか?」

というご質問を、よくいただく。


これについては、申し訳ないが、期待するようなお答えは差し上げていないと自覚している。


というのも、
本当に人それぞれだからだ。

直感のレベルも、思考のレベルも、意識のレベルも、それぞれだから、感じ方も、解釈の仕方も、何を思うのかも、それぞれ。

ということは、わたしがどこかを勧めたからと言って、わたしの感じ方、解釈、思いと一致することは、無いだろう。


それよりも、
「行ってみたい!」
と思った場所に行って、気分が良かったのなら、そこが合っているのでは?という程度でじゅうぶんだと思う。


以前、わたしが自分の能力を受け入れたときに、西寒多神社の龍に大変お世話になった。

そのあと、とある方が、お勧めの神社をと尋ねてきたので、わたしは西寒多神社を、自分が体験したことも含めてお勧めしたことがある。

すると、1か月くらい経ってからだろうか。
またその方とお会いする機会があったときに、その方が、

「西寒多神社に言ったんよ。だけど、時間がもう17:00くらいで。で、写真は撮らないようにと思ってたのだけど、なんか撮っちゃって。そしたら、いろんなものが写り込んじゃってて。」

と、話始めた。
わたしは、
「なぜ17:00?なぜそんな時間にわざわざ?」
「なぜ、わざわざ写真を撮ったの?」
と、疑問だらけだった。

その方は、続けて、

「でね、この前、ある占いに行ったんだよね。そして、西寒多の話をしたらね、その占い師さんから、

『あなたは、西寒多は合わない。家の近くに神社があるはず。そっちの方があなたには良い。』

と、言われて、家の近くを探してみたらあったのよ!だから、そこに行くようにしたの。」

と、話してくれた。


そもそも、その話を、なぜわざわざわたしにしてきたのか?というのも、普通に考えると謎だが、

わたしはそのとき、瞬時に、

ー人にはそれぞれ、レベルがある。ー

というものを、受け取った。


わざわざ、西寒多に17:00頃に行かなきゃならなかったこと。
わざわざ、写真を撮って、いろいろと写り込んでいたものを確認させられたこと。
わざわざ、別の人から『西寒多はあなたには合ってないよ』と言われたこと。
そして、
そのすべてを、わざわざわたしに話さなきゃいけなかったこと。


なるほど・・

必要な情報は、すべてわたしのところに入ってくるようになっている。


それからわたしは、神社などをお勧めすることは、控えている。



過去のブログ、『百合若と白嵩神社。(あとがき)』には、

『自分を信じきる覚悟表明に、白嵩神社を参拝してみてはどうだろう?』

と、伝えている。
あなたに、どれだけの覚悟が持てるかという話だ。



もちろん、反対にあまりお勧めしない場所もある。
しかし、その話をしても、そういう場所に行く人は行く。不思議で仕方ない。
(結局、自分の中の鏡を映し出すということなのだろう。)


やはり、「呼ばれる」「呼ばれない」は、あるのかもしれない。。。



わたしは、神はおおらかで寛容であると知っている。そのため、神が選択をしているとは到底思えないのだ。
だから、「呼ばれる」「呼ばれない」ということも、わたしの中では、よくわからないでいた。


しかし、先日、Kさんが、また夢を話をしてくれたのだが、

「白嵩神社の鳥居の向こう側に、社が隠れるくらいの大きな白い犬?みたいなものが、座ってた。狛犬かなぁ?と思ったのだけど・・・」

という内容だった。


なるほど。
「呼ばれる」「呼ばれない」は、神ではなく、そのつかい(神使)の役目なのかもしれないな。。。



そう言われてみれば、
わたしを紹介するのも、わたしの周りの人間は、無意識に話をする人間を選んでいると言う。
わたしがそうしろと言ったわけでは無いのだが、自然とそうさせられているようだ。

そういうことか・・・



わたしは、「呼ばれる」「呼ばれない」という意識はなく、わたしが、興味を持つか否かだと思っているのだが、

大半の人間は、基本的に神や神社に興味があるからこその、「呼ばれる」「呼ばれない」が浮上するのだと理解した。



わたしからの参拝の助言は、
【本心を伝えること】
これに尽きる。

人間同士でも、なかなかできないことだが、せめて神の前では本心を。


神は、人間の気持ちを汲み取ることはしない。
神は、人間に都合の良い優しさをばら撒くことはない。

もし神が、そのような優しさをばら撒くのであれば、わたしもこれほどに厳しいはずもないのだ。


自分の心の中で誓いとは、
自分に嘘をつかないことだ。


【神は自分の中にいる】という意味がわかる者には、納得のいく話だ。