年齢を重ねれば重ねるほど、
「あの頃に戻りたい」
という声を聞くことが増える。
わたしは、一切、そうは思わない。
どんな過去よりも、今がいちばん良いからだ。
「あの頃に戻りたい」と思えるということは、もしかしたら、中途半端な時間を過ごしていたからでは?とも感じることもある。
高校生の時にスポーツで、先輩方のおかげで全国制覇を2冠も経験させてもらった。
華々しい経験だとは理解している。しかし、戻りたい気持ちは1%も生まれない。
なぜなら、その裏での厳しい世界をちゃんと経験しているから。
今、スポーツの世界でがんばっている方々に、わたしが常々お伝えしているのは、
「簡単には勝たせてはもらえない。」
ということ。
勝つための練習と、勝つための努力をしているスポーツ選手なら、この言葉に尽きることを理解できるだろう。
(何のためかわからない根性論や、そのチーム内だけで満足している程度の練習しかした方がない人には、理解できないかもしれないが。)
簡単には勝たせてもらえないからこその、ドラマがあるのだ。
それをまた、巻き戻したいなんてことは一切思わないし、過去に未練を残すような生き方は、一切していない。
そして、過去の自分には絶対に負けない。
人間は、経験を積んでいった分、成長できるようになっている。
しかし、そのシナリオに逆らおうとする人間も、少なからず存在する。
「あのとき、ああしとけば良かった。」
「あの時に、戻りたい。」
いやいや、あのとき、それができなかったから、ここにいるのだ。
今が、自分の実力だということが、全く理解できないからこそ、そんな呑気なことが言えるのだろう。
もっと言えば、
なぜ、今が、不正解だと決めつけるのか?
その根拠は何なのか?
・・
問うてみると、だいたい答えはみんな変わらない。
「ラクをしたいだけ。」
ラクをできない今は、自分には相応しくない!
自分はもっとラクをして生きるべきだ!
と、言ってるのと変わらない。
ラクをする=幸せ
は、本当なのか?
自分さえラクになれば、本当に幸せなのか?
周りから思いっきり嫌われる存在になるのは間違いないが、そういう想像までできているか?
今が、良いか悪いかなんて、どうでもいいことなのだ。
今の自分には、この経験が必要だった。それだけのこと。
この経験を通して、どう成長していくのか?
なりたい自分になるためには、絶対にこの経験が必要だったと、自分が理解できなければ、彷徨うのは当たり前だ。
華々しい経験の、そのあとの砂を噛むような経験の方が、経験レベルとして高い。
(これが理解できない人間が多い)
それでも、すべては通過点でしかない。
誰もが簡単に理解できるような華々しさなんて、一瞬で散ってしまうように最初からできている。
以前、こんなことがあった。
わたしの知人の友人が、病気で亡くなったことを知った。
わたしも、知人の紹介で、何度かお会いしたことがあったので、どんな方かはだいたい理解していた。
病気ということも家族以外に誰にも知らせずに、最期は家族に看取られたようで、その後、親交の深かったわたしの知人に家族から連絡が入ったようだ。
知人は、急いで友人たちに連絡を取り継ぎ、亡くなった友人のご自宅にご挨拶に伺ったと、その様子を聞いた。
家族は、本人に、
「本当に、友だちに連絡しなくて良いの?」
と、何度も尋ねたらしいが、本人が頑なに、
「こんな弱い姿を見せたくない」
と言い、最期まで誰にも連絡できなかったと話してくれたという。
わたしは、話を聞きながら、
〜その姿を見せることができたら、また、結果が違っていたかもしれない〜
〜その方は、自分で成長を止めてしまったのかもしれない〜
と、わたしには感じたのだ。
もちろん、その方の気持ちも理解できる。友人関係にはキャラクターと共に成り立っているところもあるので、そのキャラクターを壊したくないという気遣いもあっただろう。
しかしだ。
自分という人間よりも、キャラクターが勝ってしまった途端に、自分はがんじがらめになる。
「強い」キャラクターが、「弱い」キャラクターに変わってしまうのではなく、
「強い」キャラクターに、「弱さ」がプラスされるから、「強さに深みが増す」ということを知らないままだったのかもしれないな。。と、わたしは感じたのだ。
病気になったからこそ、できることだってある。
闇雲に、「殻をやぶれ!」なんて言ったところで、できるはずもない。
殻をやぶるのではなく、次のステージに、ステップアップするだけのこと。
知らないから不安なだけ。
どういうところがステップアップで、どんな意味があるのか。
それを知れば、自ら成長を止めることもない。
「あの頃に戻りたい」
という声を聞くことが増える。
わたしは、一切、そうは思わない。
どんな過去よりも、今がいちばん良いからだ。
「あの頃に戻りたい」と思えるということは、もしかしたら、中途半端な時間を過ごしていたからでは?とも感じることもある。
高校生の時にスポーツで、先輩方のおかげで全国制覇を2冠も経験させてもらった。
華々しい経験だとは理解している。しかし、戻りたい気持ちは1%も生まれない。
なぜなら、その裏での厳しい世界をちゃんと経験しているから。
今、スポーツの世界でがんばっている方々に、わたしが常々お伝えしているのは、
「簡単には勝たせてはもらえない。」
ということ。
勝つための練習と、勝つための努力をしているスポーツ選手なら、この言葉に尽きることを理解できるだろう。
(何のためかわからない根性論や、そのチーム内だけで満足している程度の練習しかした方がない人には、理解できないかもしれないが。)
簡単には勝たせてもらえないからこその、ドラマがあるのだ。
それをまた、巻き戻したいなんてことは一切思わないし、過去に未練を残すような生き方は、一切していない。
そして、過去の自分には絶対に負けない。
人間は、経験を積んでいった分、成長できるようになっている。
しかし、そのシナリオに逆らおうとする人間も、少なからず存在する。
「あのとき、ああしとけば良かった。」
「あの時に、戻りたい。」
いやいや、あのとき、それができなかったから、ここにいるのだ。
今が、自分の実力だということが、全く理解できないからこそ、そんな呑気なことが言えるのだろう。
もっと言えば、
なぜ、今が、不正解だと決めつけるのか?
その根拠は何なのか?
・・
問うてみると、だいたい答えはみんな変わらない。
「ラクをしたいだけ。」
ラクをできない今は、自分には相応しくない!
自分はもっとラクをして生きるべきだ!
と、言ってるのと変わらない。
ラクをする=幸せ
は、本当なのか?
自分さえラクになれば、本当に幸せなのか?
周りから思いっきり嫌われる存在になるのは間違いないが、そういう想像までできているか?
今が、良いか悪いかなんて、どうでもいいことなのだ。
今の自分には、この経験が必要だった。それだけのこと。
この経験を通して、どう成長していくのか?
なりたい自分になるためには、絶対にこの経験が必要だったと、自分が理解できなければ、彷徨うのは当たり前だ。
華々しい経験の、そのあとの砂を噛むような経験の方が、経験レベルとして高い。
(これが理解できない人間が多い)
それでも、すべては通過点でしかない。
誰もが簡単に理解できるような華々しさなんて、一瞬で散ってしまうように最初からできている。
以前、こんなことがあった。
わたしの知人の友人が、病気で亡くなったことを知った。
わたしも、知人の紹介で、何度かお会いしたことがあったので、どんな方かはだいたい理解していた。
病気ということも家族以外に誰にも知らせずに、最期は家族に看取られたようで、その後、親交の深かったわたしの知人に家族から連絡が入ったようだ。
知人は、急いで友人たちに連絡を取り継ぎ、亡くなった友人のご自宅にご挨拶に伺ったと、その様子を聞いた。
家族は、本人に、
「本当に、友だちに連絡しなくて良いの?」
と、何度も尋ねたらしいが、本人が頑なに、
「こんな弱い姿を見せたくない」
と言い、最期まで誰にも連絡できなかったと話してくれたという。
わたしは、話を聞きながら、
〜その姿を見せることができたら、また、結果が違っていたかもしれない〜
〜その方は、自分で成長を止めてしまったのかもしれない〜
と、わたしには感じたのだ。
もちろん、その方の気持ちも理解できる。友人関係にはキャラクターと共に成り立っているところもあるので、そのキャラクターを壊したくないという気遣いもあっただろう。
しかしだ。
自分という人間よりも、キャラクターが勝ってしまった途端に、自分はがんじがらめになる。
「強い」キャラクターが、「弱い」キャラクターに変わってしまうのではなく、
「強い」キャラクターに、「弱さ」がプラスされるから、「強さに深みが増す」ということを知らないままだったのかもしれないな。。と、わたしは感じたのだ。
病気になったからこそ、できることだってある。
闇雲に、「殻をやぶれ!」なんて言ったところで、できるはずもない。
殻をやぶるのではなく、次のステージに、ステップアップするだけのこと。
知らないから不安なだけ。
どういうところがステップアップで、どんな意味があるのか。
それを知れば、自ら成長を止めることもない。