わたしのところには、子育てや、子どものことでの相談もたくさんある。
子どもは、親の分身ではなく、別ものであり、他人なのだが、それが理解できないのかなんなのか、親の所有物のように扱っている人も多い。
それでも、わたしのところへ案内されたということは、『何かを変えたい』『変えなければいけない』と気づいたからだと思っている。
しかし、わたしのところに来てからが、その課題と直面しなければならず、決してラクではない。
その課題を乗り越えられるか否かも、すべて、あなた次第だ。
子どもにも、得手不得手はある。
我が子の不得手を、他人から指摘されると、本人以上に親が傷つくパターンがある。
このパターン、わたしから視たら、かなり危険だと感じる。
「なぜ、傷つくのか?」
親だから当たり前だ!と思う人が多いだろうが、
「なぜ、親なのに、傷つくのか?」
何が言いたいか?というと、
傷つくということは、我が子の不得手を、ネガティブに捉えていて、どこかで、「かわいそう」だと思っているのではないか?
不得手は、事実である。
しかし、それはネガティブなことなのか?
親の狭い価値観で判断して、出した答えが「ネガティブなこと」かもしれないが、その答えは、全世界共通なのか?
なぜ、
不得手を指摘されたら、不得手の部分で勝負しようとするのか。
ここには、
子どものためと言いながら、ただ単に親のくだらない意地がパンパンに詰まっているのではないか?
どんなに得意なことがあっても、
相手の気持ちを無視するような人間は、生きづらくなる。
誰にでも、得手不得手はある。
だから、なんなのか。
わたしの長男は、幼い頃から足が速い方だった。
幼稚園の運動会で、かけっこをするのに、長男はぶっちぎりで走るのではなく、一緒に走る子たちに合わせて走っていた。先生が、「全力で走って!」と応援してくれるので、困り顔のまま、申し訳なさそうに、1位でゴールした。
つまり、目立つことが苦手だったのだ。
彼にしてみたら、足が速いことなんてどうでも良かった。1位になることは、彼にとっては恥ずかしいことだった。
わたしは、その気持ちがよくわかった。
さぁ、この子は、どうするだろう?
わたしは、彼の様子を楽しみにしていた。
小学校に入学すると、1年生では運動会のリレー選手に選ばれた。
これもまた本人にとっては嬉しくもないことだ。
昼休みの練習も、苦痛で仕方なかった。
だけど、ある日の昼休みの練習で、自分が一生懸命走って、1位でバトンを渡して、みんなのところに戻ると、6年生のお兄ちゃんがたくさん褒めて喜んでくれたらしい。
そのときに、彼は、自分の走りで知らない人が大喜びしてくれる事実を初めて認識した。
「足が速いのは、悪いことじゃないかもしれない。誰かのためになるなら、一生懸命、走ってみよう。」
と、心の中で思った。(本人談)
わたしからすれば、走る速さがどうであろうと、彼は彼。リレー選手になろうとなかろうと、それがわたしの何かに関わることも一切なかった。
それから、彼は5年生まで、足の速さは学年で常にトップだった。
しかし、彼は、
「これは、生まれつきのもので、自分の努力ではない。」
と、認識していて、むしろ、速くなろうと努力している友だちのことを尊敬していた。
彼は、走ること自体が好きなわけでもなかったので、陸上関係の方から誘われても、すかさずに断っていた。
そんな彼が、6年生になったときに、家でわたしに、
「今年の運動会は、リレー選手には選ばれないかもしれない。」
と、言ってきた。
わたしは、すかさず、
「そりゃもう、じゅうぶんじゃないですか?よくがんばったと思いますよ!今まで本当におつかれさまでした!」
と、頭を下げた。
彼はホッとした顔で、周りの友だちがどんどん足が速くなっているのを目の当たりにしていると、話してくれた。
そりゃそうだ。そして、それが自然なことだ。
わたしは、彼が走ることを通して、他人の様々な気持ちを学べたことが、何よりだった。それで良かった。
彼は今、あるスポーツをしているが、思い通りにいかないことばかりの日々を過ごしていると思う。
それで良い。
スポットライトを浴びることだけが、すべてではないことを、わたしは知っている。
うまくいかない中でも、自分ができること、得意なことを、発揮し続けることが、大事なのだ。
うまくいかないと、できることも得意なことも、うまくいかなくなりがちだが、それではなんの意味もない。
苦しいときこそ、発揮できることが、自分の「本当の実力」なのだ。
うまくいかない中でも、他人のことを考えることができるなら、きっと、生きづらくなることはないだろう。
余計な心配を子どもに向けるのではなく、子どもの得手不得手を理解して、得意なことのチャンスが来たなら、その波を逃さずに乗れるように後押しする準備の方が、必要なのではないだろうか。
子どもは、親の分身ではなく、別ものであり、他人なのだが、それが理解できないのかなんなのか、親の所有物のように扱っている人も多い。
それでも、わたしのところへ案内されたということは、『何かを変えたい』『変えなければいけない』と気づいたからだと思っている。
しかし、わたしのところに来てからが、その課題と直面しなければならず、決してラクではない。
その課題を乗り越えられるか否かも、すべて、あなた次第だ。
子どもにも、得手不得手はある。
我が子の不得手を、他人から指摘されると、本人以上に親が傷つくパターンがある。
このパターン、わたしから視たら、かなり危険だと感じる。
「なぜ、傷つくのか?」
親だから当たり前だ!と思う人が多いだろうが、
「なぜ、親なのに、傷つくのか?」
何が言いたいか?というと、
傷つくということは、我が子の不得手を、ネガティブに捉えていて、どこかで、「かわいそう」だと思っているのではないか?
不得手は、事実である。
しかし、それはネガティブなことなのか?
親の狭い価値観で判断して、出した答えが「ネガティブなこと」かもしれないが、その答えは、全世界共通なのか?
なぜ、
不得手を指摘されたら、不得手の部分で勝負しようとするのか。
ここには、
子どものためと言いながら、ただ単に親のくだらない意地がパンパンに詰まっているのではないか?
どんなに得意なことがあっても、
相手の気持ちを無視するような人間は、生きづらくなる。
誰にでも、得手不得手はある。
だから、なんなのか。
わたしの長男は、幼い頃から足が速い方だった。
幼稚園の運動会で、かけっこをするのに、長男はぶっちぎりで走るのではなく、一緒に走る子たちに合わせて走っていた。先生が、「全力で走って!」と応援してくれるので、困り顔のまま、申し訳なさそうに、1位でゴールした。
つまり、目立つことが苦手だったのだ。
彼にしてみたら、足が速いことなんてどうでも良かった。1位になることは、彼にとっては恥ずかしいことだった。
わたしは、その気持ちがよくわかった。
さぁ、この子は、どうするだろう?
わたしは、彼の様子を楽しみにしていた。
小学校に入学すると、1年生では運動会のリレー選手に選ばれた。
これもまた本人にとっては嬉しくもないことだ。
昼休みの練習も、苦痛で仕方なかった。
だけど、ある日の昼休みの練習で、自分が一生懸命走って、1位でバトンを渡して、みんなのところに戻ると、6年生のお兄ちゃんがたくさん褒めて喜んでくれたらしい。
そのときに、彼は、自分の走りで知らない人が大喜びしてくれる事実を初めて認識した。
「足が速いのは、悪いことじゃないかもしれない。誰かのためになるなら、一生懸命、走ってみよう。」
と、心の中で思った。(本人談)
わたしからすれば、走る速さがどうであろうと、彼は彼。リレー選手になろうとなかろうと、それがわたしの何かに関わることも一切なかった。
それから、彼は5年生まで、足の速さは学年で常にトップだった。
しかし、彼は、
「これは、生まれつきのもので、自分の努力ではない。」
と、認識していて、むしろ、速くなろうと努力している友だちのことを尊敬していた。
彼は、走ること自体が好きなわけでもなかったので、陸上関係の方から誘われても、すかさずに断っていた。
そんな彼が、6年生になったときに、家でわたしに、
「今年の運動会は、リレー選手には選ばれないかもしれない。」
と、言ってきた。
わたしは、すかさず、
「そりゃもう、じゅうぶんじゃないですか?よくがんばったと思いますよ!今まで本当におつかれさまでした!」
と、頭を下げた。
彼はホッとした顔で、周りの友だちがどんどん足が速くなっているのを目の当たりにしていると、話してくれた。
そりゃそうだ。そして、それが自然なことだ。
わたしは、彼が走ることを通して、他人の様々な気持ちを学べたことが、何よりだった。それで良かった。
彼は今、あるスポーツをしているが、思い通りにいかないことばかりの日々を過ごしていると思う。
それで良い。
スポットライトを浴びることだけが、すべてではないことを、わたしは知っている。
うまくいかない中でも、自分ができること、得意なことを、発揮し続けることが、大事なのだ。
うまくいかないと、できることも得意なことも、うまくいかなくなりがちだが、それではなんの意味もない。
苦しいときこそ、発揮できることが、自分の「本当の実力」なのだ。
うまくいかない中でも、他人のことを考えることができるなら、きっと、生きづらくなることはないだろう。
余計な心配を子どもに向けるのではなく、子どもの得手不得手を理解して、得意なことのチャンスが来たなら、その波を逃さずに乗れるように後押しする準備の方が、必要なのではないだろうか。